「剣誠くん、教室でのことってなに?」
「すまん香織。そこはノータッチで頼む」
「あ、うん、なんかごめん」
八咲の着替えを覗いてしまった、だなんて言えねぇ。
「八咲さん、今回は防具つけてくれるみたいだけど、喘息、大丈夫かなぁ」
「それを言っても無駄だろ。調子悪くてもアイツは大丈夫って意地張るぜ」
「そう、だね。八咲さんは、そういう人だもんね」
香織がどこか悲しそうな表情を見せた。どうしたのか。しかし、その意味を考えるより早く「誰か審判をしてくれ」と八咲が面を着けながら言った。
だが、誰も返事ができない。当たり前だ。桜先生の力量は言わずもがな、この三週間で八咲の強さも部員に知れ渡っている。この二人の勝負を捌くなんて、並の剣士じゃまず無理だ。となると、
「俺、か」
皆の視線が俺に向いた。仕方ない。この二人が争う原因には俺が関係している。釈然としないが、間に立ってしまっている以上、その責任は果たさなければならないだろう。
俺一人の審判。左手に白旗、右手に赤旗を握って試合場を二等分する位置に立つ。
漆黒の道着を纏う桜先生が赤。対照的に純白の道着を纏う八咲が白旗だ。
同時に礼。三歩進み、剣を抜いて蹲踞。不気味なほど何も感じない、と、思いきや。
何かが見えた。二人の背後。
「図に乗るなよ、小娘が」
桜先生からは、異名そのまま鬼の姿が。
「その
八咲からは、微塵も揺らがぬ信念を持った、般若の姿が。
感じる。空気が。一気に、爆発する。
「始めッ!」
「「オォオオアッッッ!」」
桜先生は『鬼神』の異名の通り、全身から鬼の覇気を見せ、相手の心を砕きにかかる。
八咲も咆哮を上げて真正面から迎え撃つ。『鬼神』の圧力に全く臆していなかった。
動き出しは同時。相手の出ばなごと捻じ伏せる小手面打ち。
華奢な女性同士がぶつかったとは思えない音が炸裂する。
残心は諸手を突き上げる。今の衝突は互いに打突をつぶしていた。両者ともに有効部位を捉えていないため、即座に次の行動に移る。鍔迫り合いはしない。弾きながら二人が一歩退がり、
それは、打突の暴風雨。『鬼神』と般若。人の領域を超えた化物同士が竹刀を真剣に変えて振りかぶる。足腰を固め、意地の張り合いが始まった。
「面ッ!」桜先生が振り下ろせば面に掠めながら八咲が躱し、「テェアッ!」打ち終わりの隙を狙い撃つ。「シィッ!」角度を変えて先生が鍔で受ける。「ぜぁッ!」八咲の死に体となった竹刀を打ち落とし、二連打で面を返す。「チィッッ!」八咲が肩で受ける。すぐさま返しで空いた桜先生の胴に八咲が竹刀を滑り込ませる。「ドゥアァァッ!」引き胴。乾いた炸裂音がするが、先生が直撃の刹那に八咲の懐へ踏み込んでいた。元打ち。一本ではない。
残心を取るために高速で足を捌きながら後退する八咲。しかし、前進する先生の方が速い。背後には試合場を示す白線が一本。超えれば反則だ。
ギッ、と八咲が歯を食い縛った。桜先生が飛びかかる。八咲も読んでいたのだろう、できるだけ前で受けようと竹刀を構える。だが、桜先生の足が中途半端な位置で着地した。八咲の構えが崩れる。八咲の手元が上がる。先生の竹刀の軌道が変わった。
「テェエアッッ!」
爆竹が炸裂したような乾いた音が道場に響き渡る。先生が流麗な打突で八咲の小手を射抜いた。周囲の部員から歓声が上がるが、今のは、
「な」と桜先生が驚愕の声を漏らした。俺の角度から見ても気付くのに遅れた。
小手打ちは両者同時に炸裂していた。今の音は二つ重なって聞こえたのだ。
「メェエラァアッッ!」
布に強烈な打撃が当たり、くぐもった音が響く。桜先生の面を八咲が捉えたが、当たり所が悪い。先生の捻った首筋だ。真剣ならば致命傷だろうが、剣道では一本にならない。
体勢を崩した先生がそのまま床に転倒し、咄嗟に面を守るために竹刀を構えた。
転倒してからは一撃だけ打つことが許可されている。その規則に従って八咲が竹刀を振りかぶる。しかし、打つ場所がない。動きが止まった。
「や、やめ!」
二本の旗を頭上に挙げ、試合の中断を指示する。
危ない。雰囲気に流されて審判の仕事を忘れるところだった。
「ま、マジか。八咲のヤツ、『鬼神』と渡り合ってる」
「いや、むしろ押してんじゃねぇか?」
一度中断したことで緊張が緩んだのか、息継ぎをするように部員から感想が漏れる。無理もない。この二人の勝負は呼吸すら忘れる。俺も気をしっかり持ってなきゃ覇気に
そう思っていた時だった。
「ひゅ、ひゅ、ヒュー……」
笛のような甲高い乾いた呼吸の音。聞き覚えがある。些細な音だったが間違いない。八咲の喘息だ。今日はすこぶる調子が良いと言っていたはずなのに、どういうことだ。
「桜先生の、覇気」
つまり、全日本を制覇した剣士の
『鬼神』の覇気が、八咲を追い詰めているんだ。どうする、止めるか。と一瞬考えたところで、八咲が俺の方に来た。
「止め、るな、よ。止めたら、一生恨むぞ」
首元に刃物を突き付けられた。そう錯覚するほどに殺意で満ちた脅迫が飛んできた。
なんだこの迫力は。冗談でもなんでもない。八咲は本気で言っている。目で分かる。
冷や汗を流す俺を他所に、八咲が開始線まで戻り、先生と相対する。
「本気で来い。私の心を、折ってみせ、ろ。それを、ハァ、捻じ伏せ、証明、する」
ぐっ、と八咲が竹刀を大きく振りかぶり、中段へ戻す。
そして、黒鉄よりも重く、鋼鉄よりも硬い覚悟が瞳に宿った。
アレだ。全く微動だにしない不動の姿。中学の頃に俺が負けた相手。どれほどの圧力が襲い掛かろうとも決して揺らがない覚悟を携え、八咲は竹刀を構える。
「あなたは、ぜぇ、『極』には、辿り、着けない、と」
「上等じゃない」
桜先生が大上段に構え、ゆっくりと中段に下ろしていく。
切っ先が下がっていくにつれ、先生から滲む覇気がより黒く染まっていく。
「そこまでへし折られたいなら、望み通りにしてあげます。後悔だけは、しないように」
圧される。つぶされる。自分が戦っているわけではないのにそう錯覚してしまう。
俺の手汗が旗の持ち手に染み込んだ。試合が再開される。
瞬間、八咲が構えを解いた。
「な」「は? 何やってんだ八咲」「え、どういうこと?」
動揺が部員たちに伝播する。当たり前だ。現代剣道において構えを解くなど、戦意を放棄することでしかない。喘息と桜先生の覇気によって、とうとう八咲の心が折れたのかと思ったが。
「いや、違う」
喘鳴させながらも、立ち昇る八咲の覇気はこれまでに見たどの覇気よりも強大だった。
喘息によって動けなくなる体。繰り出せてもあと一太刀が限界だろう。故に、八咲は、
「あれは、『
竹刀をだらりと提げるようにして、脱力を行っているのだ。
そもそも、構えとは何か。心構え、気構え。何かに対して準備をする、というのが構えの大まかな定義だ。剣道の構えも似たような意味を持つ。
中段が基本として採用されているのは攻防どちらも大きな隙がなく、安定して動作に移行しやすいから、という面が大きい。
俺の蜻蛉の構えは体幹から伝わる力を余すことなく剣に乗せるため。
つまり、構えとは勝利するために最適な準備をすることを指す。
当然だ。剣道は勝負の世界。勝ち負けが生まれる以上、誰もが勝つために最適な選択をする。よって竹刀を構えるのだ。
だが、今の八咲はその枠から外れている。
構えない。それはつまり、勝ち負けなど度外視して試合をしていることを意味する。
俺や桜先生では考えられないことだ。相手を理解し、歩み寄るために剣はあるという、八咲ならではの答え。それが八咲の今の姿、『無構え』。その戦い方はまさに。
「侍、のような」
そこで悟る。俺は今、八咲 沙耶の真実を見ているのではないか。
「諦めたのかと思ったけど、そうじゃないみたいね」
桜先生の冷え切った声が聞こえてくる。
先の光景とは打って変わって、驚くほど静かな立ち上がりだった。だが、同じ試合場にいる俺には分かる。二人は尋常ならざる覇気の鬩ぎ合いをしている。時間が停まった八咲と、飛び出そうと力を漲らせる先生。八咲の立つ場所が
波は荒れ狂い、津波となって生命の呼吸を許さない。命を飲み込み、心を蹂躙し、辿り着く最果ては孤高の頂。誰も触れることのできない頂上の存在こそが桜先生だ。
「行きます」
先生の
審判をしている俺でさえ、先生の全力に心が竦む。鬼が見える。黒い、二本の角を生やした筋骨隆々の化物。桜先生の背中から出現する『鬼神』は、覇気を八咲へと広げていく。
「これが、黒神 桜。『鬼神』と呼ばれた、最強の女剣士」
桜先生が言った釣 明人師範の話を思い出す。
『我々は、いかに剣を振らずにいられるか。そのために剣を振っている』
果たして本当の正解がどういうことを指すのか、未だ俺には理解できなかったが、少なくとも桜先生にとっての正解はやはりこれなのだろう。
これが現状の彼女にとっての、剣の『要』の先にある剣の『極』。
剣を振らずして相手から戦意を奪い取る。
命を無駄にすることはない、と。
少し力を入れたら頭蓋骨をぐしゃりと押しつぶせるほどの巨大な鬼の手で頭を撫で、命は尊いと語る。先生の覇気は、格の違いを相手に刷り込ませて屈服させることに特化している。
「ヒュー、ヒュー、ぜ、ぇ、ぁ、あ」
ごふっ、と八咲が咳き込む。丸まる背中。その様子でとうとう香織が異変に気付いた。
「八咲さん、喘息が! 剣誠くん!」
分かっている。八咲の様子がおかしいのは香織より早く気付いている。でも、腕が動かない。それは先生の覇気に中てられているからか。
それとも、先ほどの八咲の脅迫が、脳裏に焼き付いているからか。
「言ったはずです。喘息だろうが、容赦はしないと」
先生が動く。鬼の掌に握られている八咲ではどうすることもできないだろう。
そうして、八咲の血が桜先生の足跡となる。恐怖畏怖、かつて学校中から恐れられた孤高の怪物が、仮借ない打突と覇気で八咲を磨りつぶそうと飛びかかり、
「だから、それが不細工だと、言っている」
されど桜先生の全力を一心に受け止めているはずの八咲は、どこまでも脱力しきった体で、ぬるりと水が流れるように踏み込む。
「ああ、黒神、桜」
八咲の体が、先生以上に伸び上がって。
「あなたは、私の『
しゃらん、という金砂を撫でるような音がした。
聞き覚えがある。忘れるはずがない。あの大会と、再会した時に聞こえた、八咲の音。
同時だった。俺の剣に走る亀裂が、取り返しのつかないくらいにまで広がった。