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第39話 馬の背で

「そうか。それじゃあ、出発するぞ。――ハッ!」


 オズヴァルドが馬の横腹を蹴ると、ゆっくりと景色が流れ出した。馬の蹄が土を蹴り上げ、パカパカと蹄底ていていが音を生み出す。


 庭園を横切る際、視界の端に東屋が映り込んだけれど、オズヴァルドに気を取られていたからか、発作が出ることはなかった。


 門番に頭を下げられ、正門から出ると、徐々に馬の速度が上がっていく。振動で身体が揺れ動いたが、腹部に回されている腕のせいで、常に身体同士が密着くしてしまっていた。


 ――ち、近すぎる……っ!


 テオはどうにか身体を離そうとしたが、「危ないからじっとしていろ」と、腕に力を込められてしまう。その結果、最初よりも、余計に密着することになってしまった。


 ……気まずい。


 そんな思いから、もぞもぞと落ち着きなく身動みじろぎしていると、


「落馬したいのか」


 と、注意されてしまった。


 馬は敏感に人間の感情を感じ取る生き物だ。背に乗る人間が動揺したままだと、馬はそれを感じ取り、不安な気持ちにさせてしまう。


『落馬したいのか』


 オズヴァルドの言葉を反芻する。


 ――落馬したい人間なんていない。


 オズヴァルドの言葉は正しい。それゆえ、テオは反論することができず、大人しく腕の中に収まっているしかなかった。


 ……相乗りすると決まってから、遅かれ早かれ、こうなることは分かっていたのに。


 テオは自分が思っていたよりもずっと、オズヴァルドのことを意識している事実に、ようやく気がついた。


「……はぁ……」


 背中から伝わってくる体温にばかり気を取られてしまって、ゆっくりと移り変わっていく景色を楽しむ余裕は全くない。


 だが、人間は馴れる生き物だ。


 相変わらず心臓の鼓動は早かったが、街道に出る頃には、最初ほどではなくなっていた。


 すっかり大人しくなったテオの腹部から、ようやくオズヴァルドの腕が離れていく。そのことに安心している気持ちと、残念に思っている気持ちがないまぜになって、今度は心がもやもやしだした。


 テオの頭の中は、オズヴァルドのことでいっぱいなのに、当の本人はなんとも思っていないようにみえる。


 ……自分ばかりドキドキして、不公平じゃないか?


 逆恨みも甚だしいが、つい、非難するような視線を送ってしまう。すると、テオの視線に気がついたオズヴァルドが、「どうかしたか?」と問いかけてきた。


 まさか視線が合うとは思っていなかったテオは、焦って目をそらしてしまう。


 ……少し、不自然過ぎただろうか?


 ドキドキしながら手綱を見つめていると、オズヴァルドの視線が、テオの後頭部に注がれているのを感じ取った。


 ……ものすごく、見られている。


 テオは動揺しながら、何か話さなければと、無理やり口を動かした。


「――オ、オズ!」


「なんだ?」


「えっと、その……どうして相乗りを……? 俺……行きは、レオと一緒にって……」


 もごもごと歯切れ悪く言うと、オズヴァルドは正面を見つめたまま、


「――ああ。それが気になっていたのか。よく考えてみれば、あいつは、アルバーニの丘までの道を知らないだろう? だから、ボクとテオが道案内をしてやらないといけないと思ってな」


 と言った。


「あ……だから、先に相乗りを?」


「そういうことだ。……何か問題でもあったか?」


「えっ! だ、だいじょうぶ! 何も問題ないっ」


 「そうか。ならいい。――それと、」と、オズヴァルドは、軽く上体を倒してテオの横顔を覗き込んできた。


「レアンドロとジョゼフ先生から外出の許可が出たとはいえ、倒れたあの日からまだ数日しか経っていないし、行きは特に慎重になった方がいいだろう? レオは気遣いのできる奴だが、乗馬に関しては少々大雑把すぎるからな」


 言って、後方をチラッと一瞥する。その視線を追うと、今すぐにでも駆け出しくてたまらなそうな表情をしているレオポルドがいた。……なるほど、とテオは納得する。


(たしかに。乗馬は体力の消耗が激しいから、レオが操る馬に乗っていたら疲れてしまう)


 こくっと頷いて前に向き直ると、「そういえば」とオズヴァルドが話題を変えてきた。


「お前がしおりを貸してくれただろう? テオが養生している間、うつ病や女性恐怖症、幻覚について調べてみたんだ」


 ああ、とテオはその時のことを思い出す。


「本を読むって言っていたけど、俺の病気のことについて調べてくれていたんだな」


「そうだ。ボクも力になりたくてな」


 「そっか」と、テオは、手綱を握る手に視線を落とす。――嬉しい。オズヴァルドが、テオの側にいない間も自分のことを考えてくれていたことが。


 テオは胸がぽかぽかと温かくなるのを感じながら、それで? と話をうながした。


「……残念だが、ジョゼフ先生がおっしゃっている以上の収穫は得られなかった。まあ、先生から借りた専門書だから、当たり前かもしれないが」


 「がっかりしたか?」と、オズヴァルドは、沈んだ声で聞いてくる。それに対して、「そんなことない」と、ふるふる首を左右に振った。


「俺の病気について知ろうと努力してくれてるのに、がっかりするわけないじゃないか。……むしろ、たくさん無様な姿を見せてしまっているのに、嫌ったり距離を置いたり、今の俺のことを否定しないでいてくれることに感謝してる。……俺がオズヴァルドの立場だったらそこまで出来ないと思うし、病気のことだって、そんな風に受け入れることができなかったと思う」


 ……実際、病気にかかっている本人でさえ、受け入れるのに時間がかかったのだ。自分のことではないのに、他人に対してここまで親身になれるオズヴァルドに感心し、尊敬する以外の感情を抱くはずがないではないか。


「オズヴァルドは強いな」


 ボソッと、思わず口から出た言葉に、「……そんなことはないさ」と返ってきた。


「ボクからすれば、目に見えない病気と、実際に闘っているお前の方が強く見える。ボクだったら、受け入れることができたかどうか想像もつかない。テオ。お前は強い」


 「ボクなんかより、よっぽどな」と、オズヴァルドが、フッと微笑む気配がした。


 まさか、そんなことを言われると思っていなかったテオは、どう返事をしていいか迷う。けれど結局は、一つしか選択肢は残っていなかった。


「……ありがとう」


 テオは涙ぐみそうになりながら、ツンとする鼻をすすって、アルバーニの丘に向かう道の先を見遣る。それから先程とは違い、ドキドキする心臓の音を心地よく感じて、オズヴァルドの胸によりかかった。


「どうした? しんどくなってきたか?」


 「うん、少しだけ」と、テオは、小さな嘘をつく。


「少し休むか?」


 心配そうに訊ねてくる声に、ううんと首を左右に振った。


「風が気持ちいいんだ。……少しだけ、目をつむっっていてもいいか?」


 甘えるように言って、答えを聞く前に目蓋を閉じる。すると、


「このままゆっくり走るから、少し眠っているといい」


 と、優しい声音が振ってきた。テオは、「うん」と小さく頷いて、すぐに襲ってきた睡魔に身をゆだねたのだった。


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