メイドの手を借りて部屋に戻ってきたテオだったが、メイドに触れられても、嫌悪感を抱くことはなかった。
一瞬、女性恐怖症が寛解したのかと思ったが、治療を始めたばかりなのでその考えは一蹴した。
(だったら、どうして?)
――テオは、無意識に男性を虜にしてしまうため、男性の使用人をつけることができない。
しかし、女性恐怖症を発症してからは、女性の使用人をつけることもできなくなってしまっていた。
ところが幸いにも、聖騎士養成所で寮暮らしをしていた経験が役に立ち、着替えや入浴を一人でこなすことができている。
テオは、ほぼ同じ背丈のメイドの肩を借りながら、その横顔をチラッと盗み見た。――とても美しい顔立ちをしているが、貴族の子息であるテオに取り入ろうとするそぶりは見せず、ただ一心に前だけを見ていた。
(これが姉上の『
カロリーナ専属のメイドたちは、人形のように無表情で職務に忠実であることから、ドールと呼ばれている。彼女たちは女の部分を決して見せず、ただカロリーナのためだけに、淡々と仕事をこなしていくことで名が知れている。
(社交界の令嬢やクラーラとは全く違う)
――だから触れられても平気だし、カロリーナも己のメイドを付き添わせたのだろう。
そう、内心で密かに納得した時、ちょうど部屋の前に到着した。テオが口を開く前に、メイドはささっと、素早く扉の横に移動する。
さすが、カロリーナ子飼いのメイドだなと感心しながら、テオはフッと微笑みを浮かべた。
「ありがとう。ここまででいいよ。部屋には一人で入れるから」
「かしこまりました。それでは扉だけ開けさせていただきます」
「うん。頼むよ」
軽く膝を曲げてお辞儀をしたメイドがドアハンドルに手を掛けようとした時だった。ふわりと甘ったるい百合の香りが鼻先を掠めていく。その瞬間、「痛っ」と小さな悲鳴が上がった。
ハッとして自分の左手を見遣ると、メイドの手首を力いっぱい掴んでしまっていた。メイドの手の甲は、血流が浮き上がって青白くなっており、ブルブルと小刻みに震えている。
「――ごっ、ごめん!」
急いで手を離したけれど、多分、メイドの手首には痣ができてしまうだろう。それほどまでに、扉の向こうにいる人物に対して、怒りと嫌悪感を抱いていることを再認識した。
「……やっぱり自分で開けるから、君はもう姉上のところに戻っていいよ」
平静を装って言うと、メイドは手首を気にする様子を見せず、「かしこまりました」と言って、やはり表情を変えることなく去っていった。その後姿を見送り、角を曲がって姿が見えなくなったのを確認してから、テオはドアハンドルを握って深呼吸をした。そうして覚悟を決めて、ハンドルを下に押し、重厚な造りの扉を開く。僅かに空気の抵抗を感じながら押し開いた扉の先に、黄金の髪を風になびかせながら、こちらを見てふわりと微笑む少女の幻影――クラーラ・カステリヤーノが立っていた。
「テオ様。お久しぶりです。その後の調子はいかが?」
カロリーナ直伝の美しいカーテシーをして見せたクラーラを見て、テオは思わず顔をしかめる。今回のクラーラは、月の女神を連想させるような、穢れのない純白のエンパイアドレスを身にまとっていた。
「……今更、深窓の令嬢ぶらないでくれ。君は――いや、お前は、俺が生み出したただの汚らわしい幻影なんだから」
言って、バルコニー近くに立つクラーラへ、軽蔑の眼差しを向けた。
けれど、クラーラは全くこたえた様子を見せず、むしろ、きょとんと首を傾けて見せる。
「あら。どうして勝手に決めつけちゃうの? ララは幻影じゃないかもしれないのに?」
――幻影じゃない?
想像もしていなかった答えが返ってきて、テオの頭は一瞬フリーズしかけたが、余計な雑念を振り払うように
「何を馬鹿な事を言ってるんだ。お前が自分で言ったんじゃないか。お前を作り出したのは俺だと――」
「テオ様は、」と、クラーラは、テオの言葉を遮った。
「ララが幻影なんかじゃなくて、クラーラの恨み辛みと、テオ様の嫌悪感が生み出した
「……は?」
突拍子もない発言に、今度こそ何も言えなくなってしまったテオは、完全に思考が停止して黙り込んでしまった。――それを好機と思ったのだろう。
マルヴァーネは、身動きできないでいるテオに近づいて、挑発するように下から見上げてきた。
「ねえ。変だと思わない? テオ様が生み出した幻影なら、ララはずぅーっとテオ様の傍にいることができるのに、どうして消えたり現れたりしちゃうのか」
テオはじりっと一歩あとずさり、
「そ、れは……俺の体調や気分によって……」
「プッ! キャハハハ!」
いきなり甲高い笑い声を上げたマルヴァーネに、テオはビクッと肩を揺らして驚いた。それに気がついたらしいマルヴァーネは、目尻に浮かんだ涙を人差し指ですくい取りながら、
「テオ様って、相変わらず気弱なのね? 将来は立派な
と、呆れた風に言った。
「び、びび……?」
首を傾げたテオに、マルヴァーネは、ハァとため息をつく。
「『怖気づく』とか『怖がる』っていう、平民がよくつかってる言葉よ。……ったく。これだから、貴族のお坊ちゃんは……」
頬を膨らませてプリプリと怒る姿が印象的で、テオは初めてマルヴァーネのことを真正面から見た。
(……たしかに。見た目はクラーラそのものだけど、言動があまりにも違いすぎる。今の今まで、特に気にしたことはなかったけど……)
そして、このマルヴァーネは、テオが知り得ないことを知っている。ジョゼフが言ったように、テオが作り出した存在ならば、平民の言葉を知っているはずがない。
テオは、マルヴァーネの言い分が正しいと仮定して、きちんと話をしてみることにした。
「えっと……お前、いや、君は……その、どう呼べばいい?」
「そうねぇ……じゃあ、『ララ』って呼んでくれる? 結構、気に入ってるの」
「……わかった。じゃあ、ララ。君はどうして俺を苦しめるようなことばかりするんだ?」
「そんなの決まってるじゃない。クラーラ・カステリヤーノが、テオ・ド・アルバーニを恨んでいるからよ」
淡々と紡がれた言葉にガラにもなくカッと頭に血がのぼった。