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第62話 身支度

 旅立ちの日の早朝。


 カロリーナが好んで愛用しているという、新鮮な薔薇の花弁と薔薇のオイルを垂らした湯船に浸かり、そろそろ上がろうかと湯船から出ようとした時。


「――テオ様。そろそろお出になられますか?」


 と、聞いたことのない若い女性の落ち着いた声が、浴室の扉の向こうから聞こえてきた。


 誰だろう? と考えながら、


「もう出るところだから、少し待っていてもらえる?」


 と言った。すると、「かしこまりました」と言って、扉の前から気配が消える。そのことに、ホッとして、衝立にかけてあるバスタオルを手に取った。


 ぬれた髪の毛をわしゃわしゃと大雑把に拭いて、首から順番に水気を拭い取っていく。本来ならば、メイドが待機する為の椅子の上に、黒のバスローブが丁寧にたたんで置いてあった。それに手を伸ばしてつかみ取ると、肌に吸い付くようなシルクの柔らかさに身を包み、腰紐をしっかり締めてスリッパを履きバスルームから出た。


「お待ちしておりました。お湯加減はいかがでしたか?」


 と、扉越しに聞いた声の女性が訊ねて来た。


「丁度いい温度だった。気持ちよかったよ」


「さようにございますか。それはようございました」


 フッとほんの僅かに口元を緩めた女性は、テオの説明を求める視線に気づいたのか、


「申し遅れました。私は、今回新たに侍女長に任命されました、メイアンと申します。以後、お見知りおきくださいませ」


 と言って、侍女服ローブ・モンタントのスカートを左手で摘み、右手を胸元に当てて、完璧なお辞儀をして見せた。黒一色で統一されたローブ・モンタントに、ベルベットのような質感の赤薔薇を連想させる髪色が、とても良く映えている。普段、女性を褒めるような言葉は言わないが、今回ばかりはどうしても伝えたくなってしまった。


「とても美しい髪色だな。まるで赤薔薇の花びらのようだ」


 言って、メイアンの反応を見ることなく、ドレッサーの元に向かう。すると背後で、「お褒めにあずかり光栄でございます」という言葉が聞こえてきた。テオは半分だけ顔を後ろに向けて、こくっと頷いてみせたのだった。


「テオ様。こちらへお掛けになってください」


 カロリーナが遣わしたドールの一人が、ドレッサー前の椅子を勧めてきた。それに頷いて座り、磨き上げられた鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。


「……どう考えても、姉上のようにはなれないと思うんだけど……」


 テオの呟きを拾い上げたメイアンが、


「そのようなことはございませんよ。テオ様にはテオ様の美しさがございます。慣れぬ化粧と服装は、ご負担になりましょうが、どうか我慢して下さいませ」


 と言って、壁際に控えていた二人のドールに指示を出し、二人が退出していったのを一瞥して、鏡の中のテオに微笑みかけた。


「それでは只今より、お支度を始めさせていただきます」


「うん。よろしく頼むよ」


「お任せくださいませ」


 膝を軽く曲げてお辞儀をしたメイアンは、一人残ったドールに目配せをし、二人がかりで化粧を始めた。


 ――そうして一時間後。


 化粧をし、ウィッグを着用したテオは、どこからどう見ても令嬢にしか見えない容貌に変わった。


「――凄い。まるで、姉上みたいだ」


 鏡に映る自分の顔を、左右に動かしたり、触れてみたりして感心する。動く度に、長い髪の毛がふわふわとなびき、不思議な気持ちになった。


「髪が長いって、意外と頭が重いんだな……」


 これを一月の間続けなければならないことを考えると、途端に気が重くなる。はぁとため息を吐いてげんなりしていると、メイアンが鏡越しにクスクスと笑って、両手をパンパンと叩いた。すると、衣装や靴を持って、二人のドールが入室してきた。


「弱音を吐くのはまだ早うございますよ? 淑女の支度は、ここからが本番ですわ」


 言って、メイアンは、ドールから黒を基調としたドレスを一着受け取った。


「こちらのドレスは、カロリーナ様と私の二人で、吟味に吟味を重ねたご衣装にございます。本日はこちらをご着用いただきますわ。覚悟はよろしいですか?」


 「かっ、覚悟……?」と、テオは、椅子から立ち上がって振り返り、じりっと後退する。


 しかし、当然、ドレッサーがあるので逃げることは不可能だ。


「……さあ。テオ様。お覚悟なさいませ」


 ふふふっと、微笑みながら近づいてくるメイアンに、テオは心の中で悲鳴を上げたのだった。






 ――テオが着用したのは、カロリーナが好んで着ている胸を強調するドレスではなく、デコルテが完全に隠れるハイ・ネックの落ち着いたドレスだ。


「テオ様は、同じ年頃の男性よりも、狭い肩幅をしていらっしゃいます。ですが、女装をするとなると若干肩幅の広さが目立ちます。それゆえ、肩のラインを拾わないよう、肩の切り替え位置が低く、なだらかな肩のラインを出すことで、女性らしさを強調してみました」


 スラスラと淀みなく説明してくれるメイアンの言葉に頷きながらも、テオの頭の中は「?」で埋め尽くされている。


「コルセットやクリノリンは窮屈でしょうから、代わりにアンダースカートを三枚重ねることで、スカートをゆったりと膨らませました。ウエスト位置が高いのもポイントです。これによって、男性特有の、ウエスト位置の低さを誤魔化すことができましょう」


「は、はあ……」


「スカート丈はやや短く、足首が見えるくらいの長さに調整して、靴はヒールのないフラットシューズをご用意いたしました。ただ、紐を足首に編み上げなければならず、若干窮屈に感じられるでしょうが、どうかご容赦くださいませ。次に、着用していただいている下着ブラシエールについてですが――」


「わーっ! だっ、大丈夫! もう十分に理解したからっ!」


 テオが頬を赤くして訴えると、メイアンは「さようにございますか?」と言って、最後にレースが重ね着けされたボンネットを手に取った。後ろ頭を隠すように二枚のレースが段になってついているそれを整え、テオの頭に装着して角度を調節すると、「これにてお支度は以上でございます」とお辞儀をした。


「……女性って、毎日こんなに大変なのか? 俺、もう気を失いそうだよ」


 ハァ〜と息を吐いて背中を丸めたテオに、メイアンは、


「本日の装いは序の口でございますわ。今回は、アクセサリーの類は一切使用しておりませんし、御髪やお身体に香油を塗り込んでもいませんもの」


 けろりと言ってのけたメイアンに、テオは苦笑いを浮かべることしかできなかった。するとそれに気がついたメイアンが、


「明日には明日の。明後日には明後日のご衣装を準備しております。楽しみになさってくださいね」


 と言って、ふふふっと口元を緩めたのだった。

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