言いたいことだけを言って、レオポルドは椅子から立ち上がり、ステップを踏まずにひらりと馬車から飛び降りた。
「ありがとねー。アルバ」と、レオポルドは、馬の手綱を受け取ってその場から去って行ってしまう。その軌跡を、ぼーっとしたまま視線で追っていくと、まろい頬を真っ赤にしたアルバと視線がかち合った。
アルバはピャッと不思議な声を上げ、
「ぼっ、ぼくはなにも見てませんっ!」
と言って、両手で顔を覆った。
「……今更、遅すぎるだろう」と、テオは、顔の熱が冷めないまま苦笑いを浮かべる。するとそこへ、同乗予定のメイアンがやってきて、様子のおかしいテオとアルバを交互に見比べた。
「……なにかございましたか?」
訝しげに首を傾けるメイアンに向かって、胸の前で両手を左右に振りながら、
「いや! 別になにも! なっ、アルバ!?」
と、アルバに助けを求めた。
しかしアルバは、ピャッと声を上げて、
「あの、えっと、そのぅ……」
と忙しなく大きな瞳を左右に動かしたあと、
「あっ! そうだったぁ! ぼっ、ぼくっ! アルフォンスのお手伝いをしてこなくっちゃあ〜!」
と、わざとらしく言って、くるっと方向転換をした。
「ちょ……! アルバ!」と、テオは、焦って手を伸ばした。が、アルバは、風のような速さでいなくなってしまった。
がっくりと首を垂れたテオを不思議そうに見遣りながら、慣れた足取りでステップを上がったメイアンは、テオの正面に礼儀正しく座って――異変に気がついた。
「テオ様」
「……なんだ?」
「口紅がよれてらっしゃいますわ」
そう言われて、ハッと口もとに手を当てる。それから、口をもごもごと動かしたのち、
「……そんなにか?」
と、恐る恐る訊ねた。するとメイアンは、首を左右に振り、
「いいえ。ですが、お直しされるのがよろしいかと」
言って、手荷物の中から黒いレースで飾られた長方形のハンドバッグを取り出した。テオが不思議そうにハンドバッグを見ていると、メイアンはフッと微笑みを浮かべて、軽く中身を見せてくれる。
「こちらはテオ様のハンドバッグにございます。この中には、扇子やハンカチに香水など、淑女に必要なものがいろいろと収納されております」
「香水まで持ち運ぶのか? ……女性は大変だな」
「はい。本当に」と、メイアンは微笑んで、ハンドバッグの中から口紅を取り出した。
「さあ。テオ様。こちらを向いてくださいませ。私が直して差し上げましょう」
「うん。頼むよ」
テオは大人しく言われるがまま、メイアンに顔を向けて目蓋を閉じる。すると、服に残ったレオポルドの僅かな残り
「やっ、やっぱり直さなくていい!」
バッと両手のひらをメイアンに突き出し、赤くなっているであろう顔を右横に向けて、ふるふると
「そういうわけには……」と、メイアンは、戸惑った声音で言った。
テオは、顎下をくすぐるボンネットのリボンを右手でいじりながら、
「じゃあ……じゃあ、自分で直すよ! 口紅くらい、自分で直せるからっ」
「手鏡と口紅を貸してくれ」と、テオは、勢いよく左手を突き出した。
「……かしこまりました。難しければ、いつでもお声がけ下さいませ」
と言って、メイアンはスッと背筋を伸ばし、テオを見つめないように視線を下に向けた。それをチラッと窓ガラス越しに確認して、手渡された手鏡に自分の顔を映す。すると確かに、口紅がよれていた。
(不意打ちだったから……俺が驚いて動いた時に、輪郭からはみ出しちゃったのか……)
手鏡に映る
鏡を見ては赤くなり、口紅を塗ろうとすれば落ち着きをなくすテオを見て、メイアンは不審に思ったのだろう。
「あの……テオ様? 大丈夫でございますか?」
と、訊ねてきた。それに対してすかさず、『大丈夫だ』と答えられなかったテオは、むぅ……と口紅を睨みつける。そうして結局、メイアンに手直しを頼んだのだった。
「――はい。できましたわ」
そうメイアンが言って、テオがお礼を言おうとした時、旅装を身にまとったオズヴァルドが声をかけてきた。
「おい。お前たち。そろそろ出発しようと思うが、準備はできているか?」
「はい。抜かりなく」と、メイアンが答える。
オズヴァルドは頷いて、視線をテオに移した。澄んだ蒼穹の瞳にテオの姿が映る。何故か後ろめたい気持ちになってしまい、オズヴァルドから視線を反らしてしまった。表情は見えないが、オズヴァルドの纏う空気が重苦しいものに変わったのを感じ取る。
(どうしよう)
直したばかりの口紅を気にすることも忘れ、きゅっと下唇を咬んで俯いたテオに、オズヴァルドが声をかけようとした時。
てててっと軽い足音を立てて、アルバが姿を現した。
「オズヴァルド様っ。レオポルド様が呼んでらっしゃいます!」
「なに? レオが? ……準備はあらかた完了しているだろう。なんの用事だ?」
眉間にシワを寄せるオズヴァルドを見上げて、アルバは、もじもじと人差し指同士をくっつけた。
「なんのご用件なのか、ぼくにはおっしゃってくださいませんでした。なので、オズヴァルド様に直接赴いていただくしか……」
オズヴァルドは、チッと舌打ちをして、砂埃避けのマントを翻した。
「……テオ。お前はこのまま、馬車の中にいろ。レオが何を言い出すかわからんが、まもなく出発する」
それだけを言って、オズヴァルドは去っていく。
――その後ろ姿を見つめながら、無意識に不安そうな顔でもしていたのだろうか?
「テオ様。私も話を聞いてまいりましょうか?」
「え?」
「不安そうなお顔をなさっておいでです。私とアルバで確かめて参ります。御前を離れることをお許しくださいませ。――行きますよ。アルバ」
「はーい!」と、アルバは、元気よく右手を上げた。
一人きりになった車内で、この数分の間にあった出来事を整理しようと思っていると――
ふわりと濃い百合の花の香りがして、さっきまでメイアンが座っていた場所に、幼子の姿のままのララがちょこんと座っていた。
しかし前回と違い、顔の半分を隠すように、長い髪を眼前に垂らしていた。