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第65話 動揺

 言いたいことだけを言って、レオポルドは椅子から立ち上がり、ステップを踏まずにひらりと馬車から飛び降りた。


 「ありがとねー。アルバ」と、レオポルドは、馬の手綱を受け取ってその場から去って行ってしまう。その軌跡を、ぼーっとしたまま視線で追っていくと、まろい頬を真っ赤にしたアルバと視線がかち合った。


 アルバはピャッと不思議な声を上げ、


「ぼっ、ぼくはなにも見てませんっ!」


 と言って、両手で顔を覆った。


 「……今更、遅すぎるだろう」と、テオは、顔の熱が冷めないまま苦笑いを浮かべる。するとそこへ、同乗予定のメイアンがやってきて、様子のおかしいテオとアルバを交互に見比べた。


「……なにかございましたか?」


 訝しげに首を傾けるメイアンに向かって、胸の前で両手を左右に振りながら、


「いや! 別になにも! なっ、アルバ!?」


 と、アルバに助けを求めた。


 しかしアルバは、ピャッと声を上げて、


「あの、えっと、そのぅ……」


 と忙しなく大きな瞳を左右に動かしたあと、


「あっ! そうだったぁ! ぼっ、ぼくっ! アルフォンスのお手伝いをしてこなくっちゃあ〜!」


 と、わざとらしく言って、くるっと方向転換をした。


 「ちょ……! アルバ!」と、テオは、焦って手を伸ばした。が、アルバは、風のような速さでいなくなってしまった。


 がっくりと首を垂れたテオを不思議そうに見遣りながら、慣れた足取りでステップを上がったメイアンは、テオの正面に礼儀正しく座って――異変に気がついた。


「テオ様」


「……なんだ?」


「口紅がよれてらっしゃいますわ」


 そう言われて、ハッと口もとに手を当てる。それから、口をもごもごと動かしたのち、


「……そんなにか?」


 と、恐る恐る訊ねた。するとメイアンは、首を左右に振り、


「いいえ。ですが、お直しされるのがよろしいかと」


 言って、手荷物の中から黒いレースで飾られた長方形のハンドバッグを取り出した。テオが不思議そうにハンドバッグを見ていると、メイアンはフッと微笑みを浮かべて、軽く中身を見せてくれる。


「こちらはテオ様のハンドバッグにございます。この中には、扇子やハンカチに香水など、淑女に必要なものがいろいろと収納されております」


「香水まで持ち運ぶのか? ……女性は大変だな」


 「はい。本当に」と、メイアンは微笑んで、ハンドバッグの中から口紅を取り出した。


「さあ。テオ様。こちらを向いてくださいませ。私が直して差し上げましょう」


「うん。頼むよ」


 テオは大人しく言われるがまま、メイアンに顔を向けて目蓋を閉じる。すると、服に残ったレオポルドの僅かな残りが鼻先を掠めて、瞼の裏に先程の光景が浮かんだ。


「やっ、やっぱり直さなくていい!」


 バッと両手のひらをメイアンに突き出し、赤くなっているであろう顔を右横に向けて、ふるふるとかぶりを振る。


 「そういうわけには……」と、メイアンは、戸惑った声音で言った。


 テオは、顎下をくすぐるボンネットのリボンを右手でいじりながら、


「じゃあ……じゃあ、自分で直すよ! 口紅くらい、自分で直せるからっ」


 「手鏡と口紅を貸してくれ」と、テオは、勢いよく左手を突き出した。


「……かしこまりました。難しければ、いつでもお声がけ下さいませ」


 と言って、メイアンはスッと背筋を伸ばし、テオを見つめないように視線を下に向けた。それをチラッと窓ガラス越しに確認して、手渡された手鏡に自分の顔を映す。すると確かに、口紅がよれていた。


(不意打ちだったから……俺が驚いて動いた時に、輪郭からはみ出しちゃったのか……)


 手鏡に映る上唇の輪郭キューピッドボウを、小指の先で優しくなぞる。すると、さっきの唇同士が合わさった感覚が戻ってきて、それを払拭するように首を左右に振った。


 鏡を見ては赤くなり、口紅を塗ろうとすれば落ち着きをなくすテオを見て、メイアンは不審に思ったのだろう。


「あの……テオ様? 大丈夫でございますか?」


 と、訊ねてきた。それに対してすかさず、『大丈夫だ』と答えられなかったテオは、むぅ……と口紅を睨みつける。そうして結局、メイアンに手直しを頼んだのだった。


「――はい。できましたわ」


 そうメイアンが言って、テオがお礼を言おうとした時、旅装を身にまとったオズヴァルドが声をかけてきた。


「おい。お前たち。そろそろ出発しようと思うが、準備はできているか?」


 「はい。抜かりなく」と、メイアンが答える。


 オズヴァルドは頷いて、視線をテオに移した。澄んだ蒼穹の瞳にテオの姿が映る。何故か後ろめたい気持ちになってしまい、オズヴァルドから視線を反らしてしまった。表情は見えないが、オズヴァルドの纏う空気が重苦しいものに変わったのを感じ取る。


(どうしよう)


 直したばかりの口紅を気にすることも忘れ、きゅっと下唇を咬んで俯いたテオに、オズヴァルドが声をかけようとした時。


 てててっと軽い足音を立てて、アルバが姿を現した。


「オズヴァルド様っ。レオポルド様が呼んでらっしゃいます!」


「なに? レオが? ……準備はあらかた完了しているだろう。なんの用事だ?」


 眉間にシワを寄せるオズヴァルドを見上げて、アルバは、もじもじと人差し指同士をくっつけた。


「なんのご用件なのか、ぼくにはおっしゃってくださいませんでした。なので、オズヴァルド様に直接赴いていただくしか……」


 オズヴァルドは、チッと舌打ちをして、砂埃避けのマントを翻した。


「……テオ。お前はこのまま、馬車の中にいろ。レオが何を言い出すかわからんが、まもなく出発する」


 それだけを言って、オズヴァルドは去っていく。


 ――その後ろ姿を見つめながら、無意識に不安そうな顔でもしていたのだろうか?


「テオ様。私も話を聞いてまいりましょうか?」


「え?」


「不安そうなお顔をなさっておいでです。私とアルバで確かめて参ります。御前を離れることをお許しくださいませ。――行きますよ。アルバ」


 「はーい!」と、アルバは、元気よく右手を上げた。


 一人きりになった車内で、この数分の間にあった出来事を整理しようと思っていると――


 ふわりと濃い百合の花の香りがして、さっきまでメイアンが座っていた場所に、幼子の姿のままのララがちょこんと座っていた。


 しかし前回と違い、顔の半分を隠すように、長い髪を眼前に垂らしていた。

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