第13話
陛下との朝食を終えて、いつものように司馬に図書館で歴史書の翻訳した紙を渡した。そして、彼が夢中で文章を読んでいる横で大きなため息をついた。
「どうして、こうなっちゃうんだろうなぁ」
はぁ。まったく大変なことにばかり巻き込まれてしまう。ここに来たときは、もしかしたら、自由に生きられるんじゃないかと期待していたのに。
さっきの会話を思い出す。
「実は後宮の宦官に不正をしている噂がある。黄と協力して、そいつをあぶりだしてほしい」
という依頼を受けた。
どうして、こんな中央政府の根幹に近づかなくちゃいけないんだろう。むしろ、敵国の姫にそこまで期待するのは、安全上、どうなの?
そして……
「翠蓮。皇帝として、君に謝罪する。今回の暗殺未遂事件で、こちらの反対派の陰謀に巻き込みすまなかった」
そんな風に、鉄仮面の陛下が素直に頭を下げたのだ。一瞬、鳥肌が立ってしまった。許さないといけない雰囲気が作られてしまう。そもそも、私は協力を断ることができない。立場的にもそうだし、関係性の上でも。
「このまま、保守派の横暴を許していたら、毎回、私に罪を擦り付けたり、もしかしたら、命を狙われる危険にあう。私だけじゃなくて、芽衣にまで危害が加えられるのは、もうこりごり」
考えをまとめるために、ひとりごとを連続でつぶやいていると、司馬があきれたように口を開く。
「さっきからうるさいんだけど。ここは図書館。お静かに。それとも、西月国では、そういう文化はないの?」
「いいじゃない。どうせ、私たち以外に誰もいないんだから」
「僕がいるんだけどな」
まったく、この宦官は、私の立場をまるで知らないかのように、よく言えば気さくに、悪く言えば、失礼な態度で接してくれる。堅苦しくて、どこに敵がいるかわからない後宮の聖域みたいなところがあるわね。
「それはそうと、この前のお礼だけど、明日には届くみたいよ」
暗殺未遂事件を解決するため協力してくれた彼のために外の本屋に注文しておいた歴史書の注釈本だ。
「っ‼」
冷静な彼が一瞬だけ身体を震わせる。本当に楽しみなんだな。そこまで喜んでもらえたら、こっちまで嬉しくなってしまう。
「もし、他にも欲しい本があったら言ってね。さすがに、命を救われたんだから、いくら感謝してもしきれないもの」
彼はさらに二度も身体を震わせている。もっと欲しい本があるのね。冷たそうなのに、こういうところがわかりやすいのは、彼のかわいらしさというか人間的な長所だろう。
「あ、ありがとう」
不器用にそうお礼を言う弟のような宦官に思わず笑ってしまう。
「いいえ、こちらこそ」
こういう風にきちんとお礼をする姿を見て、思わず陛下が頭を下げてくれたことを思い出してしまった。よく考えれば、あそこでごまかして謝罪しない選択肢だってあったはずなのに。陛下はきちんと頭を下げてくれた。
『ふむ。ここで私を暗殺するのか。だが、凶器は隠し持てないはずだぞ。着替えの際に、女官が着替えを手伝うのは、私の安全を守るためでもある。そして、この監視の目をかいくぐって、私と二人きりになることができた暗殺者なら、殺されても構わない。そこまで優秀な人間なら、殺される前にこちらに仕えないかと一度誘ってみるがね。その結果、断られたら、自分はそこまでの器だったということに過ぎない。皇帝の代わりなどいくらでもいる』
さきほどの自暴自棄にも聞こえる会話を思い出す。冷酷という評判は、裏を返せば、無私で公正明大。自分にすら厳しく、そして現実主義者。
そして、皇帝という権力の絶頂にいる筈なのに、どこか世捨て人のような諦めと危うさを感じる。本当に不思議な人だ。この二人は。
※
午後。大長秋様がやってきた。先日、私たちを詰問した目の鋭い宦官と一緒だった。まるで、私たちが犯人かのように追及して、私と芽衣に論破されて、恥をかいたからか、とても居心地が悪そうな顔をしている。
「翠蓮様。この度は、暗殺未遂事件の解決、本当にありがとうございます」
「いえ、助け舟を出してくれて本当にありがたかったです。あのままでは、雰囲気だけで犯人にされてしまうところでしたから」
「空気というのは、本当に恐ろしいものですからね。少しずつ、翠蓮様が過ごしやすい後宮になればよいのですが」
「それも今後の空気次第ということでしょう」
私は芽衣に目くばせして、人払いをお願いする。彼女はうなずいて、すぐに他の女官たちと出て行く。
人がいなくなった後で、上司に促されるように、背中をポンポンと叩かれて、ようやくあの宦官が口を開いた。
「この度は、賢妃様と芽衣殿を疑ってしまい大変申し訳ございませんでした。ご無礼を働き弁解の余地もございません。罰をおっしゃっていただければ、どんな処分でも受け入れるつもりです」
震えながら真っ青な顔で、やせた身体を震わせている。たしかに、最上級妃に対してあらぬ疑いをかけて、調査が終わっていない段階でまるで犯人のように断定し、かなりの暴言を吐いたわけだ。普通であれば、死罪か後宮追放は免れない。命が助かったとしても、なかなか宦官の再就職は難しいうえに、財産も追放と共に没収されてしまうため、事実上、社会的に抹殺されてしまうことになる。
「今回の件は、私は処分など望んでいません。以後、注意してください」
「なんと……よろしいのでしょうか」
罰せられる本人が思わず驚いてしまう。ここで、彼に厳しい処分を与えれば、私の敵は増えてしまうだろう。なら、ある程度の温情を見せておいた方がいい。そうすれば、少なくとも彼は敵にはならないだろう。敵が少なくなれば、それだけで私も負担が減る。
「ええ、今回は許します」
この話はこれで終わり。そう目くばせすると、安心したのか目に涙を浮かべて、力なく崩れ落ちそうになっていた。
「これで、仕事の話ができる空気となりましたな」
そう言われてしまうと、こちらまでふふっと笑ってしまう。大長秋様はここまで全部織り込み済みね。宦官でここまで穏やかな人がいるなんて思わなかった。
「おかげさまで。それで、不正を働いている宦官について、なにか調査は進んでいるのでしょうか?」
「それがほとんどわからないのです。なぜなら、誰か敵で味方かもわからないのです。うかつに動くことはできない。下手に動けば、こちらの動きに反応してより対策を立ててくるでしょうから」
「それはそうですが、私もあの暗殺未遂事件で動いてしまいました。要注意人物になっているのではありませんか?」
「おそらくそうでしょう。ですが、あなたと皇帝陛下は犬猿の仲だと噂されております。我々と手を組んでいるとはまだ思われていないでしょう。今回の件は妃一人でできるものじゃありません。毒を手配し、用意したものがいる」
「それは、不正宦官ということですか」
「ええ、外から来る荷物の検査は、基本的に宦官が審査します。つまり、審査部の宦官の誰かが陰謀に加わっているのではないかと」
どこの部門が怪しいのかわかれば、ある程度容疑者も絞れていそうだ。でも、あえてこちらにその情報を渡さないということであれば、それは何かあるということ。
「もちろん審査を行う宦官には監視を強めておりますが、怪しい動きをする者はおりません」
「そうですか。しかし、毒物が持ち込まれたということは、すでに責任者たちの処分は行われたのでは? 審査部に大きな責任がありますよね?」
「ええ、もちろんです。ですが、審査部の責任者は、罰を宣告される前に自害しましてな。部下には責任がない。すべて自分の責任だ。金に目がくらんで、やってしまったと。君はどう思う?」
確かに責任者が主犯なら納得はできる。大長秋様に促されて、さきほどから安心して脱力していた部下は、声が裏返りながら返事をして、しどろもどろに続ける。
「やはり、これは自殺ですよ。不正宦官も直属の上司だった彼を疑うようで気が引けますが、遺書もあることですし、外傷もない。幼児でもわかるくらいには簡単なことです。疑う余地なんてあるわけがない」
「それは本当に自殺だったんでしょうか?」
その言葉に大長秋様は、ピクリと反応し、「さすがですな」と苦笑いした。これはあくまでも勘だけど、できすぎている。私には、捜査権を有する調査部の頭を潰すことで、今回の暗殺未遂事件をうやむやにしようとしているんじゃないかという疑念が生まれていた。書道の捜査が混乱すればするほど、いるかもしれない黒幕に利することになる。
「大長秋様がわざわざこちらに話を持ってくるとは、怪しいところがあるのですね」
普通に考えれば、わざわざこんな話を持ってきて、ただ茶を飲むわけがないだろう。協力を求められているということだ。
「ええ、その通りです。彼は首を斬って死んでいたのですが、実は信頼できる部下に対して、今回の件について徹底的な調査を行うように指示を出していたのです」
「えっ⁉」
横にいる部下はそんなことは知らなかったとばかりに驚く。やっぱり直属の上司に信頼されていなかっただね、あなた。思い込みが強すぎて警戒されていたのかもしれない。まあ、この前の事件の時の反応を間近で見たからどうして信用されていないかはよくわかるけど。いや、もしかしてこの前の事件対応が悪すぎて、信用を失ったのかもしれない。
まぁ、いいわ。このまま、大長秋様と私で話を続ける。思わず二人で苦笑いしてしまった。
「つまり、遺書とは反対の内容で真相を追求しようとしていたわけですね」
「ええ、つまり行動に矛盾が生じているわけです。ですが、遺体には抵抗した後もなければ、他に外傷もありませんでした。状況だけ考えれば、自殺だと思われるのですよ」
不思議な話ね。責任感が強ければ、確かに自殺して責任を取ろうとする行為には説得力がある。でも、自分の命で責任を取ろうとした人間が、部下に真逆の指示を出した。
考えられることは2つ。まずは、部下に指示を与えた段階では、誰かに罪をなすりつけて自分は逃げきろうと画策していた可能性。もうひとつは、遺書は誰かに捏造されたもので、責任者は他殺されたという可能性。
おそらく、陛下も大長秋様も後者の可能性を考えているということだろう。だから、問題にした。
「現場を確認することはできますか?」
「可能ですが、他言はなしでお願いいたします。まだ、ほとんどの者が知らない情報ですので」
「わかりました」
そして、私たちは現場へと移動した。
※
責任者の宦官は、紅という名前で、この仕事は20年以上続けているベテランだったそうだ。遺体は昨夜見つかった。彼の執務室で机に突っ伏すように倒れていた。見回りの宦官が最初に発見し、近くに遺書が置かれていた。遺書には、血が付着しており、彼が死ぬ前に机に置かれたことがわかっている。
聞いたところで言えば、紅は大柄で普通の宦官の二倍も大きかったとか。遺体を移動させることも大変だった。
血は彼の机の上とその周辺に広がっていた。床には明らかな血痕が残っていた。
「大丈夫ですか、このような凄惨な現場は、本来はお見せするべきではないのでしょうが」
「ええ、本来ならそうでしょうが。大丈夫です、私も遊牧民族の出。こういう状況は、いやおうなしに見たことがありますので」
凄惨な現場らしい血の匂いがする。だが、一つ不思議なことに気づいた。
「大長秋様。この部屋はもう掃除など行ったのでしょうか?」
「いいえ、まだ調査中ですし、何も手を付けておりません。遺書だけは確認しましたが、それ以外は動かすこともしておりません。ましてや、掃除などありえませんよ」
たしかに、机の上の乾いた血には一部、あきらかにおかしな場所があり、その場所に遺書が置かれていたと思われる。彼の身体に近づくと、甘い香りが漂う。香水だろうか。たしかに、宦官の中にも香水を使うことが流行していると聞いたことがある。妃や女官たちとも話題にすることができるし、あわよくば仲良くなって、妃が皇帝の寵愛を受けるようになれば、自分の出世にも影響する。そういう打算的な考えも流行の裏にはあるのだろうけど。
だから、宦官の服から香水のにおいがするのは、おかしなことではなかった。でも、普段から使っているにしては、匂いが弱いというか、かすかにしか感じなかった。
「首を斬って自害したのであれば、血が少ないように思うのです」
芽衣に聞いたことがある。首は大きな血の道が集中していると。つまり、そこを斬ったなら、もっとたくさんの血が出るはず。なのに、血痕は机の上とその周辺にしかない。体格も大きかった宦官という証言からも、もっと多くなくてはいけないはずだ。
「なっ、そのようなことがわかるのですか? 医師も疑問には思わなかったのに」
「ええ、私も聞きかじっただけの話ですが。首には大きな血管があるはずですし、体格なども考えれば、ここまでは少なくないはずです。私は専門外なので、詳しいことは芽衣に確認させますが」
西月国は、シルクロードの中に位置していることもあって、古今東西の情報が集まってくる。それは西洋の情報も含まれる。特に芽衣の父親は進歩的な医官だったと聞いたことがある。だから、父の影響を受けて育った彼女が宮廷の医官よりも詳しい情報を持っていることも納得だ。それに宮廷の医師は、皇帝陛下直属の者を除けば、この狭い後宮のなかでしか医療を行っていない。西月国の医官は戦場での軍医も兼ねていたから、実践的な考え方が違うのだろう。
私は宦官に芽衣を呼んでくるように伝えた。
しばらく、待つと彼女はやってきた。
「すごいことになっていますね。ここで何が起きたんですか」
私はなるべく陰謀のことは伏せて、一人の宦官が昨夜ここで自殺したことを告げる。
「自殺、ですか? それにしては血が……少なすぎますよ」
やはり、芽衣も同じ意見だった。
「失礼ですが、彼女はどうしてここまで医療に詳しいのでしょうか?」
大長秋様が疑問を口にする。
「それは本人の口から」
発言を促すように、芽衣を見る。
「私の父は、西月国の医官兼軍医でした。父は、東洋の漢方医学を修めた後、たまたま手に入った西洋の医学書を読み込み、人体にも詳しくなりました。幼少期からその話を子守唄代わりに聞いておりましたし、父が若くして亡くなった後は、族長様の許しも得て、父のノートを読み漁り、知識を身に着けました。先日の毒の知識もその過程で身に着けたものです」
「ほう」
大宦官は目を見開いて、「こんなに若いお嬢さんが」と思わず漏らしていた。
「芽衣、死んでいた宦官は他の人間よりも2倍も体格が大きかったと聞いているわ。それなのに、ここまで出血が少ない理由は何か考えられる?」
こういう時の芽衣はとても頼りになる。少しだけ悩んで、頭の中にため込んだ知識を一気に検索しているのだろう。彼女の集中した時の癖である手で口を押さえるしぐさをしている。
「すでに心臓が止まっている状況で、首を斬られたのかもしれません」
「どういうこと?」
「心臓は、身体全体に血を送る場所なんです。ですので、すでに死亡した状態で首を斬られた場合は、心臓はすでに止まっているから、出血量は比較的に少なくて済む」
ここでやはり、医療の専門家も他殺ではないかという結論に達した。やはり、この事件には謎が多すぎる。
「でも、他に外傷がないんですよね。毒を飲まされたならもう少し苦しみそうだし」
さすがにそこまでは、芽衣もわからないらしい。首を絞めて殺したなら、普通はあとが残るし。
「大長秋様。いつまでも隠していることはできないと思います。ですので、こういう風に皆には報告してくれませんか。証拠隠滅をさけるために、ここは封鎖してください。もう誰も入ってこないように」
いつの間にかやる気になってしまっていた。
「なるほど、わかりました」
彼はにやりと笑った。