第18話
そこから翡翠の宮に帰ってからは、大変な騒ぎになってしまった。
私のことを見て芽衣は、勘違いして「お願い、翠蓮様、死なないで」と泣き叫び、私が生きているとわかると、てきぱきと身体に傷がないかや私に対して滋養強壮効果がある薬草を飲ませたりしてくれる。
「こんなに大事にしなくて大丈夫なのに」と抗議しても、「何を言っているんですか、相手は暗殺の専門家ですよ。知らない間に効果が遅い毒などを盛られている可能性だってあるのです。そういう時は早くしないと手遅れになってしまうんですよ‼」と専門家としてもっともな意見を言われてしまえば、口を閉じなくてはいけなくなってしまった。
皇帝陛下は、私たちの様子を遠目で眺めて、「ふふ」と笑いながら、遠目で笑い、いつの間にかいなくなってしまった。きちんとお礼を言うことすらできなかった。
私が身体を動かそうとすると、怖い主治医である芽衣に「だめです。翠蓮様は、せめて明日の朝までは絶対安静ですからね。身体を動かすなんて、言語道断ですよ‼」と怒られてしまう。いつもは私が注意する姉のような立場なのに、今回はいつもと逆になってしまった。
このままでは、司馬に渡すつもりの今日の分の翻訳できないわね。仕方がない、明日謝りましょう。寝台に絶対安静と言われて寝ることしかできない。でも、今朝は早く起きてしまったから、ちょっとだけ眠い。思わず、睡魔の手の中に落ちて行ってしまった。
※
物音が聞こえて、目が覚めてしまった。
「翠蓮様、申し訳ございません。起こしてしまいましたかな」
落ち着いた声でろうそくの明かりで大長秋様が顔を見える。心配して様子を見に来てくれたらしい。
「大長秋様‼」
「お体は大丈夫ですか?」
「はい。少し疲れたからか眠ってしまったみたいで」
「それならよかった。この度は、護衛をつけていながら、あなたを守ることができずに申し訳ございませんでした」
年長者は深々と頭を下げる。こんな風に頭を下げてもらうのは、正直に言えば恐縮だ。
「頭を上げてください。私はこうして無事だったわけですし、陛下にも誰も罪を追求しないで欲しいと申し上げておきました」
この年長の真摯な宦官なら、本当に自害でもして責任を取りかねないと思ってしまうからきちんと伝えられてよかった。
まるで孫を見るかのように、こちらを見て、目を細めてくる。こういう反応は父上のことを思い出してなんだか懐かしくなる。
「本当にあなた様は優秀だ。さらに心遣いまでできるとは。本当にありがたい。部下たちもこれで救われる」
安堵のため息が出た。
「大長秋様、さっきの暗殺者は?」
「ダメでした。恐ろしいほどの速さで逃げられてしまった。血痕も途中で途切れていたし」
「やはり、専門家はおそろしいですね」
まったく今回の陰謀には裏組織まで加わっているのか。どこに敵がいるのか本当にわからなくなってしまった。そもそも、後宮にまで暗殺者が入り込んでいるとすれば、国政の最深部に敵がいてもおかしくない。
「でも、あの暗殺者が言っていたのが、この国の抱えた闇なんですね」
※
「なんていう化物なの、あの皇帝は……皇帝として自分の意志を持たずに、ただの置物になっていればいいのに。わざわざ意思をもって動いて、こんな達人芸を身に着けるまで修練して。私たちが生きることに必死だったのに、あんたたちはただ生まれた場所が良かったからだけで……こんな特別になりやがって」
※
「私たちは、偶然……ただ、運が良いだけで、食べ物にも困らない身分に生まれた。でも、生きるだけで大変な人はたくさんいるし、生活のために裏の道に入らなくてはいけない人もいる」
自分はどこまで民のことを考えることができていただろうか。彼女を間近に見て、私は何も理解できていなかったとわかってしまった。自分が殺されそうになっていたのに、ずいぶんと呑気なことだとわかっている。でも、あれが現実なんだと思う。
「ええ、そうですね。あの女の存在が、ある意味ではこの国の裏面と言えると思います。貧困から発生する罪。そして、その貧困は、長年の戦争経済によるものだとわかっている。昔の話をしてもいいですか?」
どうしてだろう。この話を聞かなくてはいけない気がする。
「お願いします」
私が促すと、大宦官はゆっくりとうなずいた。
「私の父は、戦争に徴兵されて死んだんですよ。まだ、自分が13の時でした」
「それは……」
いや、あえて聞かないようにした。どことの戦争かなんて、聞かなくてもわかっている。大長秋様があえて国名を言わないとすれば、私の祖国だ。彼は、親を殺された敵国の姫である私にまるで、親族のように接していてくれたのか? それはなんて残酷な……
「このままでは、家族が路頭に悩む。だから、私は宦官になりました。おかげさまで、弟は家業の商売を継いでくれて、今でも幸せにやっています。妹もね、良い夫に出会って、幸せに暮らしていました」
本当に人間ができた人なのだろう。そうでなければ、家族のために、自分の尊厳を捨てて、ずっと仕送りをつづけた。宦官は、ある意味で差別の対象でもある。だから、大長秋様が受けた苦しみは計り知れないだろう。それでも、家族のために、彼は我慢を続けて働いてきた。大長秋様という後宮の宦官の頂点に立つことができるほどの器量と才能を持った人間が、家族のためにそれすら投げだしたのだ。
思わず、泣きそうになる。
そして、妹さんが幸せでしたという言葉を使っていたことで、運命の残酷さが伝わってくる。
「ですが、妹は数年前に起きた水害に巻き込まれて……彼女の遺児は、弟が育ててくれています。その水害も、予算不足で補修ができなかった堤防の劣化が原因だと後でわかりました。補修用の予算は、戦争のための軍事費として補填されていました」
「なっ」
何も言えなくなってしまった。
「それ以来思ったのです。父が亡くなったのも、妹が死んだのも、すべて戦争が悪いとね。もちろん、戦争を行わなくてはいけなくなった経緯などは理解できるのです。ですが、そのようなお題目は、今を生きる人間を無視するようなものなのではないかと思えてしまいます。勘違いして欲しくないのですが、私は西月国を責めているわけではありませんよ。さきほど、芽衣さんに話を聞きました。戦争で父親を亡くして、あなたが拾ってくれなかったらどうなっていたかもわからないって。我々は、お互いに不幸になってしまった。だから、今回の結婚に伴う和議は、私たちの呪いという縛りを解く好機となりました」
彼は一息ついて、続ける。
「私の生き方や、父や妹の死は決して無駄ではなかった。現在の平和ができあがったのですから。そして、あなたという英邁な妃様をお迎えできたことは、私としては誇りに思っております。そして、私たちの反対側の立場の人間が、同志と呼べる人間だったことがわかりました。今、私は本当に幸せ者です
そして、もう一度頭を下げてきた。
「どうか、陛下のことをよろしくお願いいたします。陛下は、まれにみる才能を持ったお方です。ですが、同じ目線に立てる人がいなくなってしまったのです。だから、あなたが彼を支えて欲しいのです。彼と同じ目線に立てるあなたなら、きっとこの国を良い方向に導ける」
過分な期待だと思った。私にそんな価値があるのか、わからない。
それに……
「皇帝陛下はそうは思っていないのではありませんか?」
思わず先ほど抱き寄せられたあの瞬間を思い出してしまって、身体が熱くなってしまった。
「私の方からは何も言えません。ですが、陛下は無理をし過ぎているのですよ。彼の執務に励む様子を見て、翠蓮様はどう思いましたか?」
ここは秘密を教えてくれた彼に対して、こちらも誠意をもって答える。
「あまりにも、自分を抑え込んでいるような印象を受けました。無私に徹しすぎているような。陛下は、冷徹と呼ばれていますが、裏を返せば、私欲がなく公正明大だと思います。それは長所ですが、ある意味で自分を犠牲にしているというか、なにか贖罪をしようとするかのような……代償行為的に、仕事に励んでいるような……自分にとっての内罰的に仕事をしているようにも見えてしまうんですよ」
その答えに納得したように、老紳士はうなずく。
「私が真実を教えてしまうのは、陛下にとって申し訳ないです。おそらく、お二人が時間をかけてゆっくりとわかっていくべきものなのでしょう。だから、焦らないでください。焦れば、それだけ無理をすることになる。無理をすれば、それだけひずみを生みます」
「ひずみ……」
「私も家族を助けるために、いろいろ無理をしました。失ったものはたくさんある。もう一度人生をやり直せるならと何度も思っております。だから、後悔なく生きるためには、無理は禁物です。我慢しすぎるのも、頑張りすぎることも、過ぎたるは猶及ばざるが如し。故事は、良いことを教えてくれますよ」
そう言って、彼は「長居しすぎましたね、それでは」と出て行く。
「大長秋様‼」
思わず呼び止めてしまった。
彼の背中があまりにも寂しすぎて、思わず声が出てしまった。
「はい」と優しい言葉で振り返る。彼はつきものが取れたように笑っていた。
「私たちにはまだ、あなたが必要です。教えていただかなければいけないことがたくさんある。だから、これからもよろしくお願いします」
私は老紳士に頭を下げた。
「本当に察しの良い方だ。正一品の妃様にそこまでされてしまったら、私も従わなくてはなりませんな。わかりました、これからもよろしくお願いします」