第17話
彼女はじりじりと食堂を出て、外壁に向かっていく。まさか、飛び越えることができるの?
「あんたを排除できれば、メンツをつぶされた西月国は強硬策にでなくてはいけなくなる。これはこれで作戦通りになるわ」
やっぱり、あなたたちは……戦争を続けたいのね。自分が儲かれば、他の人がどうなっても構わない。あまりにも傲慢すぎる。皇帝陛下は、冷徹であっても、そんなことは絶対に許さないはず。
「全員、道を開けろ」
男性の大きな声が聞こえた。宦官や騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた女官たちは慌てて、左右に動く。声の主を聞いて、思わずひれ伏す者までいた。こんな状況で何をしているのかと疑問に思いつつ、一番奥にいた人影を見て、思わず納得してしまう。
「皇帝陛下?」
陛下は、見たこともないくらい大きな弓を手に持ち、まるで達人のような美しい所作で、弓を引く。まさか、かなり距離が離れているのに、こちらを狙っている。
「ふん、いくらなんでもあの距離でこちらを正確に狙えるわけがない。あんたに当たって終わりよ。そうか、さすがは冷徹な皇帝陛下だ。あんたが拉致されるよりはここで射殺した方がましだと思っているのね。恐ろしい男」
そうかもしれない。今の私ならむしろそうして欲しいとすら思う。生きて誘拐されてしまったら、陛下は助ける義務が生じてしまう。だが、ここで事故でもいいから死んでしまえば……
いや、むしろ私にとってはここで死んだほうがいいのかもしれない。そのほうが気高く生きることができる。だって、このまま生きるのはただのかごの中の鳥になってしまうのだから。今でもどこに敵がいるのかわからない状態で、何度もトラブルに巻き込まれて、それが永遠に続くのかもしれない。
なら、いっそのこと……
「翠蓮、動くなよ」
よく狙ってください。あなたと私は利害が一致している。今朝、それがわかっただけでも、意味があった。私がここに来た意味は、あなたの真意に触れることだったのかもしれません。あなたは、国家に仕える立派な皇帝になるでしょう。あなたがいてくれるなら、この国は間違えない。だから、私の祖国も大丈夫。そう、安心して、死んで行ける。
覚悟を決めて、目をつぶった。
「私の目が黒いうちに、これ以上、好き勝手をさせるとは思うなよ。翠蓮、必ず助ける‼」
えっと思う余裕もなく、私の横を矢がすり抜けていった音がした。グサッと矢が肉に刺さる音がした。でも、どこも痛くない。まさか、私は即死して、ここは死後の世界なのだろうか。恐る恐る目を開いた。
私の身体を拘束していた腕はいつの間にか解かれていて、後方からは苦しそうな息遣いが聞こえてくる。相手が持っていたはずのナイフは、先ほどの射撃の衝撃で落ちていた。
「なんていう化物なの、あの皇帝は……皇帝として自分の意志を持たずに、ただの置物になっていればいいのに。わざわざ意思をもって動いて、こんな達人芸を身に着けるまで修練して。私たちが生きることに必死だったのに、あんたたちはただ生まれた場所が良かったからだけで……こんな特別になりやがって」
それは一つの真理をついていた。
「翠蓮様の安全を確保しろ‼」
大長秋様の命令でたくさんの宦官が私の周りに集まってくれた。
「ちぃ」と私の誘拐が失敗したことを悟り、暗殺者は舌打ちしていた。
彼女はまるで蝶のように優雅に宙を舞い、外壁の外へと消えていく。
「翠蓮、ケガはないか?」
陛下がゆっくりとこちらに近づいてきてくれた。
「心配してくれるのですか?」
「当り前だ。こちらから頼んで、そなたが巻き込まれてしまったのではないか。そうなれば、こちらがきちんと責任を取らねばなるまい」
彼の射撃は完璧で、正確無比に暗殺者の肩を打ち抜いていた。
「すごかったです」
「ああ、弓か。これだけは自信があるのだ。外すわけがないとな。ケガがなくて幸いだった。今日は侍医を翡翠の宮に待機させよう。何かあったら相談するように……いや、そなたの侍女がいるから不要だったか」
いつになく親身になってくれていることに思わず驚く。報告を受けているはずの芽衣の存在すら失念しているということはかなり焦っているのだろう。あの、冷徹な陛下が、私のために焦ってくれたのか?
そんなことが起きるなんて。思いもしなかった。
「今回の件、大長秋様以下、他の人たちに罪はありません。私が挑発して、相手の実力を見誤ったのです。処分などは行わないようにお願いいたします」
陛下がそんなことをするわけがないという謎の信頼感があるが、念のために言っておく。彼は慈悲深い笑顔になった。こんな表情の彼は見たことがない。
「ああ、わかっているよ」
思わず心臓の音が早くなった。誘拐されかけたことへの恐怖がやっとやってきたのかもしれない。その様子を見て、「すぐに帰って休め」と短く伝える。彼は、私をゆっくりと抱き寄せて、身体と脚を支えるように私を持ち上げる。陛下自身が、私を運んでくれるの⁉
「陛下、これは恥ずかしすぎます。私はちゃんと自分の足で歩けます‼」
思わず赤面しながら、消えそうな声で彼にだけ伝えると……
「そう言うな。まだ、身体のどこかに問題があるかもしれないだろう。自分の足で歩いて、ケガをしたらどうする。芽衣という侍女に見てもらうまでは、こちらの責任でそなたを守らなくてはいけない。それが、ある意味、共犯である我々の義務のようなものだろう」
体温が熱くなってくるのを実感しながら、私は彼のたくましい腕に身をゆだねた。