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第70話


「それができたらどんなに楽か。お前だってわかっているだろう」

 護衛の宦官が少し変な顔をしている。「ひとりごとだ。考え事をしているから、変でも放っておいてくれ」と命令し、続けた。


「別に答えは決まっているんだろう。翠蓮だって、絶対に兄さんに好意がある。それで解決だろうに。別に、二人の関係が進展しても梅蘭を追い出す必要だってないんだ。皇帝は複数の妻を持つことが仕事でもある。あのふたりが兄さんを支えてくれるなら俺も安心だよ」

 やっぱり弟の声は妄想だ。あいつが翠蓮を知っているわけがないのに。

 だが、それならこの都合の良い妄想を利用させてもらおう。


「私はそんなに器用な男じゃない」

 ため息が聞こえたように思う。すべてが懐かしい。


「まじめすぎるんだよ、兄さんは。そして、優しすぎる。国を守るという強い使命があるのに、その犠牲を許容できない」


「耳が痛いな」


「それでも職務にまい進するから、自分の心をすり減らしてしまう。黄だけが本当の理解者だとしても限界があるよ。あいつは優秀だけど、兄さんのように国家的な大局観に優れているわけでもない」


「そうだな。だが、黄は優秀な調整役だ。あいつがいなくなれば、この組織は崩壊しかねない」

 大長秋なんて古い呼び方は、あいつへの敬意の表れでもある。私欲もなく、ただこちらが動きやすいように内部の調整を完ぺきにこなしてくれる。そして、人柄で多くの人間を魅了する。得難い才能だ。


 だが、大長秋も自分の才能に限界を感じていたんだろう。政務に関して、同じ視点に立つことができ、そして、私にはない方向から問題を解決してくれるパートナーとして、翠蓮に白羽の矢が立ったわけだ。


「大丈夫だよ。黄と翠蓮がいる。梅蘭だって、素晴らしい補佐役だ。僕がひとりで兄さんを支えるよりも、今の状況のほうが望ましいまである」

 妄想の中の弟は、そう言って笑った。


「それでも、私はお前に生きていて欲しかったんだ。殺したくはなかった。一緒にこの国を発展させたかった。なぜ死んだ。なぜ……」

 誰も見ていないからか弱音が漏れてしまった。


「僕は、あの決断が間違っていたとは思えない。後悔なんてしていないよ」

 やっぱり、妄想の中の弟だ。あいつは、きっと絶望して死んだのだから。俺は妄想の中で、弟を生き返して勝手に許されようとしている。自己嫌悪が止まらなくなる。


「兄さんは、もういい加減に前に進んでもいいんじゃない? 違うな。あなたは、前に進んでいるのに、自分が必死に立ち止まっていると思い込んでいるだけなんだ。まだ、自分を許せていないだけさ」

 妄想の類でも、弟に消えろとは言えなかった。むしろ、こちらをもっと責めてもいいから、そばにいてくれと懇願しそうになる。


 そんなことは許されないのに。


「また来るよ。たぶんね」

 弟の幻影はそう言って消えた。


「私は結局、ひとりか」

 誰もいなくなったこの場所で一人、つぶやいた。演劇は、クライマックスを迎えようとしていた。



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