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図書館からの帰り道。また、あの子と出会った。いまは、会いたくはなかったのに。
「あら、翠蓮様。ごきげんよう」
美蘭が笑っていた。偶然の出会いではないことはすぐに分かった。おそらく、自分の行動を予想しているのだろう。後宮についてもかなりの調査が行われているとみていい。後宮だって一枚岩ではないのだから。陛下に反感を持っている保守派がどこにいてもおかしくない。
「美蘭さん。ごきげんよう」
私も何とか挨拶を返した。彼女に表情を読み取られないようにしながら。まさか、こんなところで西月国時代の特技が生かせるとは思わなかった。
「さきほど、氷の件でお話をしてきましたの、大長秋様に。根掘り葉掘り、状況を説明させられてしまって。まだ、後宮に来たばかりで、なにがなんだかわからないのにひどい話ですよね」
私は彼女を怪しんでいる。それは彼女だってわかっているはずなのに、自分の危険を顧みずにこちらの領域に入り込んでくる。それは、彼女の自分自身への自信とミスなどしないことをアピールしているのかもしれない。
これは偶然を装った出会いだ。彼女は私をここで待ち伏せしていた。
こちらを挑発するために。そう、これは遠回りの宣戦布告。
「それはお気の毒でしたね。疑いは晴れましたか?」
私たちは、あたかも仲の良い友人であるかのように話をつづけた。お互いに警戒して、腹の探り合いをしながら。
「ええ、もちろん。今回の事件の犯人は、会ったこともない宦官ですし、そもそも私が陛下を殺そうとするわけがないじゃないですか。私は、この後宮で出世するために嫁いできたのですから」
それは、半分は本音で、もう半分は嘘だろう。彼女はただの妃などという立場で収まるつもりはないだろう。それを上回る立場を狙っているはずだ。
事実上の皇帝という立場を。
彼女からすれば、陛下が凡庸な人間なら寵愛を受けている妃という立場になって陛下を傀儡にしてしまうかもしれない。だが、あの陛下はそんなに生ぬるい人間じゃない。誰も彼を操作することなんてできない。
なら、失脚か排除を狙うだろう。だが、皇帝の近辺は厳重な護衛に守られている。今回は陛下の留守の部屋を狙われたから防げなかったが、さすがに本人を狙うのは別だ。
だからこそ、今回のように遠回りの手段に出たのだろう。だが、名声を傷つけるという方法は地味ながら、確実にこちら側を苦しめる作戦でもあった。そして、不意打ちされてしまえば、防ぐことだって難しいうえに、真相も隠ぺいしやすい。
まさに、危険性は低いにもかかわらず、大きな利益をもたらすものだ。倫理観を考慮しなければ、冷徹ながら最も効率が良い。陛下は覇道を進むには優しすぎる。だから、こういう非道な覇道を突き進める人間との相性が悪い。
でも、やはりここで陛下を排除した後でどうするのか。皇室の遠い親戚を担ぎ出しても、納得する人は少ないだろう。だから、彼女の狙いが読めなかった。
後ろに黒幕がいるのかもしれない。でも、その黒幕と彼女はなにを目指しているのか。
「あなたはすごい人ね」
私は思わず本音を漏らした。ここまで、人間として非道になれるのか。少なくとも、あの宦官の最期の言葉は、私の脳裏に焼き付いてしまっている。忘れることなんてできそうにない。
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「さすがは、砂漠の女帝だな。よくわかったな」
「どうして、こんな残酷なことができるんですか⁉」
「……すべてが憎かった」
「だからって、こんな人の尊厳を踏みにじるようなことをしなくても」
「わからないだろうな。あんたみたいに恵まれた人間に、宦官にまで落とされた俺の気持ちなんて。生きるにはこれしかなかった底辺の人間の末路なんてな」
「俺はな、裕福な家庭で生まれた。将来は科挙に合格することが夢だった。だが、戦争が終わったことで、景気は悪化して、実家は転落。すべて、あの皇帝のせいさ。あいつがいなければ、弟が死ぬことも、妹が身売りされることもなかった」
「平和だ⁉ たしかに御託は素晴らしいよ。でも、お前たちみたいな人間は、実際の痛みは伴わない。戦争によって生かされている家族だっていたんだ。それもわからずに、ただ一方的に理想を押し付けるな」
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あの時に聞いた言葉を、私は一言一句思い出すことができた。
彼は家族のために夢すらあきらめて、宦官となった。いや、宦官になるしかなかった。弟さんは、貧困の中で亡くなって、妹さんも身売りされて、幸せだった家族もばらばらになった。
私たちが背負わなければいけないものは重い。
そして、あの宦官を利用した美蘭の責任はもっと重いはずなのに……。
彼女は、そんなことを一切感じていない。まるで、あの宦官の犠牲なんてなかったように気にもしていない。
きっと、皇帝陛下の権威に大きな傷をつけることができたという事実だけを重視して、名も知らない宦官の犠牲なんて犠牲とすら思っていないのだろう。
たしかに、為政者としては、その態度は正解なのかもしれない。でも、そんな非道な政治をする人間がこの国のトップにいることは、幸せなのだろうか。
そんなことは絶対に認められない。認めたくない。
少なくとも陛下は、あの地位にいるために大きな犠牲を払っている。それも、自分は皇帝になりたいなんて思うこともなく、就かなくてはいけない立場に生まれたからこそ大きな責任を背負わされているのに。
その覚悟を否定したくはない。
「ふふ、ありがとうございます。翠蓮様から褒めていただけるなんて、光栄ですわ」
まったく感謝の気持ちなんてないはずなのに、そう言える彼女が恐ろしい。陛下が国家のために冷徹の仮面をつけていたとすれば、彼女は自分の目的のために今のかわいい女性という仮面をつけている。それが一番、陰謀のために動きやすいと知っているから。彼女はとても打算的。でも、とても頭が切れる。
陛下はある意味で自分を捨てている。無私の精神で国家のために動いている。私の目の前にいる彼女は本当に正反対。
「あなたは陛下のことをどう思っているの?」
思わず聞いてしまった。彼女の本心を知りたいがために、私はあえて砕けた言葉を使った。立場も年齢も私のほうが上だから……それに挑発の意味も込めて。
でも、簡単にかわされてしまう。
「尊敬しておりますよ。それに、お慕いもしております。長い戦乱の時代を収めて、新しい時代を作ろうとする気概や大局観は非凡な才能を感じますし、長年の宿敵だった西月国とこんなに鮮やかに和平を成立させて、翠蓮様とも良好な関係を築く。なかなかできるものじゃありませんよ」
百点満点の答えだ。彼女は庇護欲をそそる見た目なのに、要所、要所で隠している才能の鋭さを見せつけてくる。でも、それは本心じゃない。
「大智は愚の如し」
私はぽつりと漏らした。これは、有名な北宋の政治家であり文豪だった蘇軾(そしょく)の言葉だったか。
「あら、『賀歌欧陽少司致仕啓(かかおうようしょうしちしけい)』ですか。私も大好きですよ」
すぐに、出典を特定されてしまった。これは、蘇軾(そしょく)と同じく政治家であり文豪である欧陽修の退官を祝った詩だ。大賢者は、あえて自分の知性を見せつけるようなことはしない。そのせいで、一見、愚か者に見えてしまう。彼女はまさにそうだ。
虫も殺せないようなかわらいしい姿で、裏ではまるで老練な政治家のように彼女の智によって、場を支配してくる。彼女に支配された人間は、自分が操られていることすらもわからないで誘導されてしまうだろう。きっと、あの宦官も同じように操られていたはずだ。
自分が彼女を利用しているように見せて、相手の支配欲のようなものを満たす代わりに、相手の尊厳すら無視して利用しつくして捨ててしまう。
そして、もしかしたら彼女以上の黒幕が裏で控えているなんて。
「私はただの女ですよ。翠蓮様ほどの賢者には遠く及びません」
そう謙遜する彼女は、口元は笑っていたのに、目が笑っていなかった。裏では隠せない自信を感じる。
「そういうところもすごいわ」
私はそう言い返すことしかできなかった。
「何を言っているんですか。翠蓮様には勝てません」
彼女はそう言って笑ながらその場を後にした。まるで、優雅におしゃべりでもしたみたいに彼女は楽しそうに笑っていた。本当に恐ろしい人ね。