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第9話 死しても残るものがあるっ


 それから、たった二日後。

 祖父は旅立って行った。八十歳を超える大往生だった。


 狩野の礎を築き上げ、画法をまとめ、絵の工房と扇子の工房を持ち、巨大な足跡を残して行った。


 俺は泣けなかった。

 俺だけではない。皆、泣けなかった。

 身体こそ埋めたものの、偉大過ぎる祖父の存在感は死してなお狩野の家に濃厚に残っていて、喪失感を覚えなかったのだ。

 祖父の絵もたくさん残されていて、そこからは相変わらず大きな手とにんまりと笑う笑顔が俺には透けて見えていた。

 その厚かましいほどの存在感は、死してかえって絶大で、むしろ俺を笑わせてしまったほどなのだ。この存在感を弔うことなどできぬ。


 祖父はやはり並の絵師ではなかった。おのれの分身を、ここまで数多く残して行ったのだ。

 並の絵師の絵からは、描いた絵師の息吹など感じることはできない。

 なのに、その才を受け継いだと言われる俺だけではなく、祖母も父も母も、数年しか生活をともにしていない小蝶すらも、祖父の存在感が滅していないのを感じていた。

 陰膳など据えたら、普通に食べていきそうなのである。旨いの不味いの、言いそうなのである。

 かくして、狩野の家の団結はそのまま保たれることになった。


 芸は残る。

 死してなお、描いたの中に、描いた者は残るのである。

 祖父は、最期に最後の教えとしてそれを残してくれたのだろう。



 − − − − − − −


 それから間もなく、関白様は越後に下向されていった。

 下向される前、父と俺を近衛様のお屋敷に呼び出し、こう告げられた。

「源四郎。

 近々、足利殿から屏風絵の依頼があろう。よくよく準備をしておくのだ」


 そう仰られても、なんのことやらわからぬ。

 狩野の家は、絵ならいつでも描ける。

 岩絵具を始めとする画材の在庫もある。足らないものはいつでも仕入れができる。だが、関白様がわざわざ俺を呼び出して告げられたことだ。その言葉の真意はそんなことではないのだろう。

 またそれは、依頼のときに将軍様の口から言えぬことなのだ。


「まずは、越後についてよく学んでおきまする」

 これは俺に代わっての父の返事だ。

「さすが、ご隠居。

 世の静謐は越後から成ろう。そのきっかけを作るのは、源四郎、そなたぞ。

 今はこれだけしか言えぬ」

「心得ましてございます」

 俺は、そう言って父とともに平伏したのだった。



 その帰り道。

 歩きながら、父が深く深くため息を吐いた。

「この依頼、受けずに済めばよいが、そうもいかぬであろうな」

 ため息だけでは済まず、そう口から言葉が溢れ出た。


「なぜにございますか?」

 俺は聞く。

 腹芸は父には敵わぬ。なら聞いてしまったほうが早い。


「関白様の下向、彼の地の長尾景虎に期待してのものであろう。

 かの者、日の出の勢いじゃ。将軍様のお声掛りもあり、先ほどの上洛の際には関東管領並みの待遇と塗輿ぬりこし(※)使用を許されておる。管領かんれい並み権威だが、実際に管領となるのも間近であろうよ。

 だが……」

「だが……、とは」

 なんとなく答えがわかった気がしながらも聞いてみる。


「源四郎もわかっておろうが……。

 力ある者の移り変わりは激しい。長尾殿が力を持ち続けられる者なのか……」

「父上、それは世の理に過ぎませぬ。父上が仰っしゃりたいことは、他にあるのではないかと推察いたしますが」

 俺は、そう突っ込んだ。


「源四郎もわかっておろうが……」

 父はそう繰り返した。

 だが、そのあとの言は異なる。

 京の都の往来の中、信頼できる父のお付きの者以外の誰かに聞かれるというわけでもないのに、父子で声を潜めあった。


 父は続けた。

「長尾殿は京まで聞こえるいくさ上手。

 だが……。かの御仁はな……」

「義といえば聞こえは良いが、甘すぎる、と」

「源四郎、やはりわかっておるではないか。

 常に戦に勝ち、軍神ともいえるほどの武将でありながら、勝ち切ることができぬ。敵を討ち取って根切りにするか、二度と逆らわせないだけの致命の打撃を与えるか、どちらかをせねばいくさは繰り返されるというのに、どちらもせぬのだよ、長尾殿は。

 わしのような、多寡が知れておる絵師の目から見ても歯がゆい」

 俺もため息を返す。


 公家、武家、寺社に父は顔が利く。

 加えて、京の町衆としての情報網もある。こちらは、お上品な情報だけではない。えげつない、だが真実を含んだ情報を運んでくる。おそらく、関白様も将軍様もこちらの情報は得てはいないだろう。

 父が得る情報は広く深いのだ。


 それができねば、実は下命もうかうか受けられない。描いた後に、依頼の家が滅びていたなどということもありうるのだ。最初から支払いの見込みのない仕事などできぬではないか。

 だから、調べるだけ調べ、世の情勢を常に掴まねばならぬし、それは家督を継いだ者の務めなのだ。その辺りも俺には見えてきていた。



「若輩ながら、俺にも見当がつきます。

 敵を一掃できないのは、天下に当て嵌めると由々しきこと。乱世が終わりませぬ。

 関白様も、今はよろしかろうと思いますが、おそらくは数年で越後とも手切りとなるやもしれませぬ。許されるなら自身のお力で天下に静謐をもたらしたい関白様にとって、歯がゆいとなればそれまでのことになりかねぬかと」

「そうだ。

 今は乱世、長尾の代わりなどいくらでもいる。駿河の今川なども、関白様と気が合えば面白いことになろうがの。ともかく、源四郎に家督を譲ったは正しかったな」

 そう言って、父はにんまりと笑った。


 まあ、絵を描くだけでなく、こういうことも考えねばならぬというのが肌身に沁みたという意味では、家督を譲られたのも悪いことではない。だが、もっと気楽に描く期間も欲しかったとも思う。


 冬の気配が増す京の往来の中、父は顔に笑顔を貼り付けたまま話し続ける。

「一介の絵師に過ぎなくてもわかることはある。合戦は無闇矢鱈と行うものではなく、行うときは最も短い道筋を走って勝つべきであろう。

 そして、天下静謐を目的とするなら、その勝ちとは京に来ることじゃ。関白様はもともと京の方。呼び寄せる立場ゆえにその道筋が見えていらっしゃるが、果たして長尾殿はどうかの」

「父上。

 お話はわかりますが、我らは一介の絵師に過ぎませぬゆえ、天下など論じても腹は膨れませぬ。それより、どういたしましょうや、将軍様からのご下命をいただいてしまったときには……」

 再び父は、にんまりと笑った。どうやら無策ではないようだ。


「源四郎、良き心がけじゃ。

 我らは我らで生き延びねばならぬ。そして、御用絵師の名だけでは腹は膨れぬ。だが、その名を失うのも惜しい。

 ふん、簡単なことよ。

 我らは一番強い者に付き従えばよいのだ。さすれば、結果として御用絵師の名は守られる。御用絵師に、真の意味での忠義など求められてはおらんよ。なので、将軍様からのご下命は受ける。当たり前じゃ。

 だが……」

「父上、どのようなものについても、描きようはありますからなぁ」

 俺、そう言って笑った。父の言いたいことが薄々わかってきたからだ。


「そうだ、源四郎。わかっておるではないか。

 描くものには必ず二つ以上の意味を持たせるのじゃ。そして、二番目以下も描いておくのじゃ。

 我らは、父の代よりよこしまな世を生きねばならぬ。それを生き延びるには、その邪さを超える知恵を持たねばな」

「わかっております」

 そのとおりであろう。

 父の言うとおり、絵師には絵師の生き延び方があるのだ。


「よかろう。

 先ほどの絵競いで、関白様からお墨付きをいただいた者たちには、まだまだわからぬこと。だが、良き腕の者たちゆえに、共に描くが良い。だが言うておく。最後の仕上げはお前がするのだ。どこも決して譲ってはならぬ」

「心得ております、父上」

「……我らは生き延びねばならぬ。生き延びてこそ、はじめてすべてを残せるのだ」

 そう語る父の執念は凄まじい。


 俺は思う。

 ひょっとしたら父は、俺より長生きするやもしれぬ。

 その思いつきは、親不孝の極みであったとしても、妙に俺を安心させるものだった。



塗輿ぬりこし ・・・ 漆塗りの人がかつぐ乗り物

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