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第26話

 結局、九奈白凪の誘拐未遂事件が表沙汰になることはなかった。

 ネットニュースは疎か、新聞やテレビ等の媒体でも取り上げられず、ただ『工業地帯でコンテナが倒壊する事故があった』とだけ、小さく報道されるに留まっていた。


 そうして土日という短い休日が明け、月曜日。

 織羽おりはは今日も今日とて、学園に紛れる為の準備を完了する。


 もしかすると凪が学園を休むのでは、という考えも過ったが、しかし凪はいつもどおりの制服姿を見せていた。

 あのような事件があった昨日の今日だ。別に一日二日くらい休んでもいいのに、などと思う織羽おりはであったが、あのお姫様はそれを良しとはしないらしい。なんともタフで気高い精神の持ち主である。そこらの探索者などよりも余程根性があるのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった。


 そんな気丈なお姫様ではあるが、事件の前後で変わった部分がいくつか見られた。


 どういう風の吹き回しか、朝の食卓に凪が同席するようになったのだ。

 これまでは自室で軽い食事をとっていた彼女だが、今日は食堂まで足を伸ばし、メイドたちと共にパンを齧っている。花緒里かおりの驚く表情からも分かるように、これは随分と意外なことだった。とはいえ凪の表情は、いつもどおりのクールな無表情ではあったが。


 そしてもうひとつ。

 むすりとした表情であるにも関わらず、メイドたちとも多少の会話をするようになっていた。これまでは事務的で、必要最低限の言葉しか交わさなかったあの凪が、だ。


「今日の朝食も美味しいわ、亜音あのん


「へっ!? あ、え、あの、ありがとうございます……!」


 あまりに予想外だったのか、あの亜音あのんですら面を食らうほどだった。


「今日は温かいわね。椿姫つばき、体調には気をつけなさい」


「へ、は、はひっ! あっ、あじゃます!」


 当然ながら、そんな突然のクーデレ要素に椿姫つばきが耐えられるわけもない。

 大きな図体でわぁわぁと、まるで小動物のように。その狼狽ぶりといったら、もはや何を言っているのかも分からないほどであった。


 そしてもう最後にひとつ。


織羽おりは、鞄をお願い」


 これまでは自分で持っていた学園用の鞄を、織羽おりはに任せるようになったのだ。


「かしこまりまし――え、急にどうしました?」


「何よ、嫌なの?」


「いえ、勿論お預かりいたしますが……」


「じゃあはい、これ」


 彼女が他人に、自分の何かを任せることなど、これまでにはなかったことだ。それこそ唯一花緒里かおりが相手か、そうでなければ、ビジネスパートナーと割り切っている相手に対してのみであった。ほとんど人間不信状態であった凪にとって、勿論これはいい傾向といえる。だが信頼の表れというには、些か急すぎるような。


 そんな織羽おりはの考えを、その困惑する表情から汲んだのだろうか。凪が一言だけ、理由らしきものを告げた。


「……もう一度だけ。そう思ったのよ」


「はい?」


 流石の織羽おりはも、その一言から凪の心情を察することなど出来はしない。『もう一度』とは、果たしてどういう意味なのか。詳しく追求してよいものかと、織羽おりはが逡巡を見せる。戦場では迷うことのない織羽おりはだが、こういった場面でどうするべきなのか、正解がまるで分からない。普段の失礼な発言からもわかるように、所詮は織羽おりはもコミュニケーション弱者なのだ。


「なんでもないわ。行くわよ」


「あ、はい」


 そうこうしている間に、問う為の時間は失われてしまった。

 先の言葉の真意は、結局分からず仕舞いである。


「それはそうと――貴女の事、いつかはちゃんと話してもらうわよ?」


「えぇ……? さっきから一体何のことでしょう?」


「あくまでしらを切るつもりなのね……まぁいいわ。今はまだ、ね」


「うーん……サイコかな?」


 こうして、どこかバランスの悪い主従は学園へと向かう。

 昨日までの二人と比べて少しだけ、歩く間隔が縮んでいるように見えた。




    * * *




 どこかの国の、どこかのリゾートホテル。

 その最上階のスイートルームで、男女が二人で会話をしていた。


「どうやら失敗したようですよ」


「えー? 何がぁー?」


 男の方を振り返ることもなく、女は足にマニキュア――厳密には意味が違うが、大抵の場合はペディキュアと呼ばれるものだ――を塗りながら返事をする。というよりも、まだ少女と呼んで差し支えないように見えた。少なくとも外見上は。


ルーフェイの二人です」


「へー、あの二人なんかやってたんだ?」


「私も詳しくは知りませんが、なんでも総会絡みの重要任務だったとか」


「ふーん。あいつら弱っちーもんね。ま、ボクらには関係ないっしょ」


「いえ、実力は相当なものだと思いますよ。少々詰めの甘いところはありますが」


 男がフォローをするが、しかし少女はまるで興味がなさそうに、再び塗り作業へと戻っていた。

 だが男が言葉を続けた次の瞬間、少女の顔には露骨な怒りが浮かぶ。


「というわけで、お仕事です。内容は二人の尻拭いですね」


「……はぁー!? ちょっと待てよオイ! 何でらが、ンな面倒な事しなきゃなんねンだよ!?」


「そういう指令ですので」


 ネイルを施していた足でテーブルを叩き、苛烈なまでに喚き散らす少女。まるで瞬間湯沸器だ。

 そんな少女の豹変に、しかし男が動じることはない。恐らくはいつものことで、すっかり慣れてしまっているのだろう。


「なぁオイ、休暇じゃなかったのかよ、あァ!? ここに着いたの昨日なンだぞ!?」


「私に言われましても」


「あァークソッ! 見ろ! 歪んだじゃねーか! どうしてくれんだ!?」


「私に言われましても」


「クッソ、死ねッ! アイツらマジで死ね! いや殺すか? よし殺そう。オイ! アイツら何処に居ンだよ!!」


「日本だそうです。それと出立は明後日ですので、それまでは休暇で構わないそうですよ」


 激昂し捲し立てる少女へと、男は酷く冷静なままでそう告げる。

 それを聞くや否や、少女は一瞬で機嫌を直した。


「……なーんだ、そうなの? わーい。そういうの早く言ってよねー」


「すみません」


 そうして再び、二人は束の間の休息へと戻ってゆく。

 少女が足を乗せていたテーブルの上で、乱雑に置かれたいくつかの刃物と銃器が、昏く鈍い輝きを放っていた。



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