メイドの朝は早い。
主人よりも遅く起きるなど以ての外だ。日が昇る前には起床し、業務の準備を始めなければならない。
「ふぁ……」
寝ぼけ眼を擦りながら、今日も今日とて
いつでも被れるようにと、枕元に置いてあるウィッグを引っ掴み。やたらと可愛らしいモコモコパジャマのまま、鏡の前まで移動する。ちなみにこれは
修行期間も含めれば、そろそろベテラン女装メイドの域に脚を踏み入れようとしている
手早く着替えを済ませ、薄っすらと化粧を施し、そうして鏡の前で笑顔の練習。最後に気合注入のため頬をぴしゃりと叩き、これで朝の準備は完了だ。
九奈白凪の誘拐未遂事件からひと月。
元より、
当初は『女装して潜入なんてどう考えても無理でしょ』などと考えていた
学園生活に於いても、これといった問題は起きていない。
むしろ凪との関係がちょっぴり進展したおかげか、以前よりも違和感なく学園に溶け込むことが出来ていた。
凪と
加えて、金持ち女子学園というのも理由のひとつだった。いわゆる『お姉様』的なアレである。
純粋培養の箱入り娘が多く通うとあってか、そういった憧れの視線も多いのだ。凪との距離が多少近づいたこともあってか、今では凪と並んでただ歩いているだけで、やたらとちやほやされる始末である。総じて違和感はないが、悪目立ちはしているかもしれない。そんな学園生活となっていた。
「でもまぁ、まだまだ任務は始まったばかりなんだけどね」
現時点では順調に推移しているとはいえ、最長で三年間も続く恐れのある任務だ。たかが数ヶ月を凌いだ程度で油断をするわけにはいかない。
それに、
加えて
表面上は変わらないが、凪の態度が明らかに軟化している。デレたという程ではないが、以前よりもずっとやりやすい。彼女が人間不信気味だというのは資料で知っていたが、それが先の一件で変化を見せたというのなら――なかなかに可愛らしいではないか。なんだかんだと言っても所詮は箱入りのお嬢様。もしかすると、子どもの頃は
出来ればもう少し、この生活を続けたい。
そう思える程度には、
鏡の前で入念に身だしなみをチェックし、どこかだらしない部分がないかを確かめる。こういった細かな部分は
メイド服にシワがあるだとか、カチューシャが歪んでいるだとか。そしてもし見つかった場合、服や頭を触られる可能性がある。胸パッドにしろウィッグにしろ、そう簡単には動かないようセットしているが、万が一ということもある。正体が露見する可能性は、可能な限り下げておきたかった。
「すっかりハマってきてるなぁ……」
学園が楽しいだの、メイド業が楽しいだの、お嬢様が妹みたいで可愛いだのと。
任務を言い渡された当初には考えられなかった事だ。そんな自らの変化を自覚し、なんとも複雑な表情を浮かべる
「隆臣の思惑通りっぽいのが癪に障るけど……でもま、任務に集中するのは悪いことじゃないしね。なんとかなるなる」
そう独りごち、全ての準備を終えた
その優れた能力によるゴリ押しで、大抵の事ならばどうにか出来てしまうが故だろうか。こうみえて、割と楽観的な部分のある
* * *
通学中、リーナがひょんなことを言い出した。
「凪さん、最近ちょっと変わりましたよね」
「藪から棒に……別に、何も変わらないわよ」
元より、その場の勢いで行動することのあるリーナだ。
それを知っているからこそ、凪は『また何か言い出した』くらいの気持ちで彼女の言葉を否定する。しかしどうやらリーナには、『凪が変わった』と感じるだけの根拠があったようで。
「いーえ! 変わりましたよ! だってほら! 二人の歩く距離が少し縮んでます!」
「……そうかしら? 気の所為でしょ?」
「そうです! ルーカスとマリカもそう思いますよね?」
ばっ、と勢いよく振り返り、二人の従者へと同意を求めるリーナ。じっとりとした視線をルーカスへと送る凪。急な板挟みがルーカスを襲う。
護衛のルーカスからすれば、凪は遥か雲の上の立場の人間だ。それを言えばリーナも似たようなものではあるが、幼い頃より共に過ごしているリーナはほとんど家族同然の存在だ。主従の関係にあるとはいえ、気安い会話も出来るだろう。だが凪は違う。いくらリーナの友人だからといって、従者が他家のお嬢様に楯突く事など出来るはずもない。
「いえ、まぁその……俺にはわかりません」
「くっ……他家の権力に屈したんですね! 見損ないましたよ、この風見鶏男っ!」
「無茶を言うな……」
そんな当たり障りのないルーカスの返答に、リーナがぷりぷりと頬を膨らませる。
一方もう一人の従者であるマリカはといえば、兄のルーカスと違っていくらか柔軟性があるらしい。
「お嬢様の言う通り、私も変わられたなぁと思います。 なんというか、前より『圧』が柔らかくなった気がします」
「ほらっ! ほらほらっ!」
同意が得られた故か、『ほらみたことか』と言わんばかりに凪へと詰め寄るリーナ。天下の九奈白家、その一人娘である凪にこんなことが出来る者などそうはいない。
そんな朝から喧しいリーナに対し、凪は酷く面倒そうな表情を浮かべる。そのままうんざりとした様子で、もう一人の当事者である
「はぁ、うるさいわね……
「畏まりました」
話を振られた
主人がナメられるのは許せない、謂れなき侮辱を受けるだなんて、仕えるメイドとして容認出来るはずもない、と。なんとまぁ随分と、メイドが板についてきたものである。そうして
「実はお嬢様は――――デレ期に入られたのです」
瞬間、
「あいたっ」
「クビにするわよ?」
そんな二人を傍らで見つめつつ、リーナはやはり『ほらっ、ほらぁっ!』などと騒いでいた。