教室内は静かで、ただ教師の声だけが聞こえていた。
白凪学園が創立されてから十数年、まだそれほど歴史のない学園だ。にも関わらず、通っている生徒の家柄や運営側の顔ぶれからか、既に名門校として名前が挙がることも多い。そんなエリート学園であるがゆえに、そこで教鞭を振るう者にも相応の能力が求められる。現在教壇に立っている女性教師もまた、そうしたエリートのうちの一人であった。
「――と、まぁこのあたりは既にご存知の方も多いかもしれませんね」
見たところ、まだ二十代半ばから後半といったくらいだろうか。
黒いストレートの髪をセンターで分けたミディアムボブ。可愛らしく垂れた目尻のおかげかキツい感じはしないが、しかしどこかやり手な印象を受ける。それを証明するかのように上から下まで、一部の隙もなくきっちりとスーツを着こなしている。特筆すべきは、彼女が身動ぎするたびに揺れる豊かな胸部だろうか。窮屈そうにスーツを押し上げるそれが、隠しきれない大人の色香を演出している。彼女は名を
新米教師とはいうものの、元々彼女は教員志望ではなかった。
この学園に来るまで――というよりも、
「先にも述べましたように、探索者の実力は概ね『桁』で測ることが出来ます。ですが『四桁』が『五桁』よりも強いとは限りません。逆もまた然りです。あくまでも依頼等を振るときの指針に過ぎない、ということを覚えておいて下さい」
カリカリとペンを走らせ、いいところのお嬢様方は熱心に授業を聞いていた。
生徒達自身が探索者になる可能性はほとんど皆無だ。リーナの様にあわよくば探索者証を取得してやろう、などと考えているご令嬢はゼロだといっていい。それでも彼女達がこうして熱心に授業を受けているのは偏に、将来探索者を『使う』側に回るであろうからだ。そんな時、探索者に関する知識があるのとないのとでは大きな差が出ることだろう。魔物素材やダンジョン資源の仕入れ依頼、身辺警護の依頼などなど。今の時代、探索者の活躍なくして豊かな生活は成り立たない。ここ九奈白市では特にそうだ。
ダンジョン周りの授業を行うようになった教育機関は多い。九奈白市内ではそれらの質が、世界的に見てもずば抜けて高いのだ。だからこそリーナのように、海外から留学してくる者までいる。さすがは世界有数の迷宮都市、といったところだろう。探索者の有効な使い方や、知っておくべきこと。それに付随するダンジョンの様々な知識。現代では、それらはほとんど必須の知識となっていた。故にいいところのお嬢様方ですら――いや、いいところのお嬢様だからこそ、こうして基礎から学んでいるのだ。
そしてここにも。
既に探索者向けの商売を成功させているにも拘らず、飽くなき向上心と責任感で授業を聞いているご令嬢が一人。口を引き結び、既に知っている話にもじっと黙って聞き入る姿は、まさに深窓のご令嬢といった佇まいである。九奈白凪は時折、何かを思い出したかのようにペンを走らせていた。そんな凪へと、その隣で微動だにせず虚空を見つめていたメイドが話かける。
「お嬢様、今更何を書き取る必要があるのでしょうか。既にご存知の話ばかりだと思いますが」
「私自身は探索者じゃないもの。知識で詰め込むしかない以上、基礎の復習は大切なのよ」
「おや? ここに元探索者の美人メイドがいますよ? 仕方ありません、何でも教えて差し上げましょう」
「貴女は結局『何位』だったのかしら?」
「あ、ちょうちょ」
「……」
自分から話しかけておきながら、都合の悪い質問ははぐらかす。
窓の外を眺め始めた
「私も立場上、探索者の戦いは何度も見たことがあるわ。けれどあの時の戦いはそんなレベルじゃなかった」
「はて、どの時でしょうか? 私が戦っているところはまだ、お嬢様には見せた事がない筈ですが……」
「はぁ……もういいわ。授業中なのだから静かにして頂戴」
この生意気なメイドは、やはり何ひとつ答えるつもりはないらしい。そう見て取った凪は、再び授業へと集中する。いっそ本当に別人だったのかと思えてしまいそうなほど、
「探索者にはひとつの『壁』があると言われています。それが『
その言葉を聞いた凪が、顎に手をあてじっと考えこむ。
「探索者の序列は、上位の殆どが『
超人。そう、あれはまさに超人だった。
ならばその超人をあっさりと制圧してみせた、あの紙袋は一体どれほどの強さなのか。最低でも三桁以下と思しきあの誘拐犯を、いとも簡単に蹴散らしたあの力は一体。
「炎や風を自在に操る技能や、怪我を一瞬で治してしまう技能など。その種類は多岐にわたります。ですがそのどれもが、ダンジョンを攻略する上で非常に大きな力となっているのです。超能力だとか魔法だとか、そういう類のものですね」
いくら凪が考えたところで、本人(?)に答えるつもりがないのだからどうしようもない。あの事件からしばらく、凪はずっと思考の堂々巡りを続けていた。
凪が個人的に調べてみたところ、『エターナルヘブン』という怪しいメイド派遣会社より先の情報へはたどり着けなかった。それより前の履歴は一切見つからず、元探と言う割に協会のデータベースにもヒットは無し。それがまた余計に怪しいのだが――――しかし凪はいつも、ここで考えるのをやめるようにしている。凪の命令を無視し、命がけで救出に来てくれたのは確かなのだから。凪が『もう一度だけ』と思えたのも、そのおかげなのだから。
(はぁ……やっぱりチョロいわね。たった一度命を救われただけで、こんなにも気になるなんて。ついこの間まで『他人なんて信じない』と思っていた癖に。これでもし本当に、あの時の紙袋が
凪本人も自覚していることだが――既に彼女の中では、
そうして凪は自嘲気味に笑い、再び授業へと集中する。
「さて、探索者と一口にいっても当然ながら中身は様々です。礼儀正しい方もいらっしゃれば、絵に描いたような粗暴者も居ます。なんだかんだといっても、所詮は同じ人間だということです。何が言いたいかといいますと――――皆さんは立場のある方々です。相手が高位の探索者だからといって、安易に気を許してはなりません。ゆめお忘れなきよう」
環がそこまで告げたところで、ちょうど授業終了のチャイムが聞こえてきた。無駄に高級感のある、如何にも『お嬢様学園です』といった鐘の音だった。最後の環の言葉が、凪にはまるで自分に向けて言っているように感じられた。
(……べ、別に気を許したわけじゃないもの。ただ面白いメイドだと思っただけよ)
一体誰に言い訳しているのやら。
そうして凪が隣の席を見てみれば、ちくちくと机の下で裁縫に勤しんでいるメイドの姿があった。
何かの魔物だろうか、手足の沢山生えた怪しい毛玉が、ぬいぐるみとして生成されつつあった。
「……え? あれ、もう授業終わりました?」
「……はぁ」
そうして再び、凪は大きくため息を吐き出すのだった。