コツリと、指が机を叩く。
ほんの僅かな音だというのに、不思議なほどに耳朶を打つ。
そうして凪は、自身の立てた小さな音により、漸く思考の海から抜け出した。
(……あぁ、また考え込んでしまったわ)
例の実習以降、凪は思索に耽ることが多くなった。
内容は様々だ。自身の経営する店のこと。学園のこと、数少ない知り合いのこと。目前に迫った総会のこと。それに付随して、誘拐事件のことや襲撃事件のこと。果ては自身の従者のこと、
凪には地位がある。立場がある、理想がある。
故に元より考え事の多いタイプではあるが、それにしても増えたものだ。
(これが悪いことだとは思わないけれど……あまり浸るものではないわ)
ずいぶん長く、こうしていた気がする。
しかし自ら淹れた紅茶を口に含めば、意外にもまだしっかりと熱かった。不思議に思い時計へと視線を向ければ、記憶の中にある時間からそれほど経過していない。精々が五分ほどだろうか。陽はいまだ中天にも届かず、自身の記憶に間違いがないことを教えてくれる。だというのに、凪は少しの空腹感を覚えていた。思考にもカロリーを消費するとは言うが――――
(……何か軽いものでも、
そう思い立ち、机上に置かれた呼び出しベルを軽く叩く。設置されてからもう随分と経つが、つい数ヶ月前までは殆ど使うことのなかったベルだ。小気味よい音を奏でる筈だったそれは、しかし腑抜けた摩擦音を返すばかりであった。
「あら?」
鏡のように磨かれた表面には、小さく驚いた凪自身の顔が歪んで映る。
カバーを外して裏面を見てみれば、軸の部分がすっかりヘタれてしまっていた。
(……仕方ないわね。厨房に行けば食材はあるでしょうし、自分で作れば済むことよ。それに、もしかしたら
そもそも、これまでの凪はずっとそうしてきたのだ。小腹が空いたからといって、わざわざメイドに頼んだりはしなかった。
それが今はどうだ。
そうして凪は席を立ち、部屋を後にする。
メイドたちは出払っているのか、館内は随分と静かであった。
続いてゆっくりと階段を降り、正面玄関へ。
埃ひとつ落ちていない玄関ホールの隅には、空のバケツと
そして夏といえば虫の季節でもある。
そこで凪はふと、自身が玄関ホールのど真ん中で立ち止まり、再び思案していることに気がついた。
(疲れているのかしら……? 不調は感じないけれど、今日はもうのんびりしようかしら)
総会参加に向けての準備などとうに終えているし、あとは細かな調整を適宜行うだけだ。別段、他に急ぎの用があるというわけでもない。結局凪は一日の休養を取ることに決め、再び厨房へと歩を進める。そうして訪れた
「あれ、お嬢様? どうかしました?」
「ええ。少しお腹が空いたから、軽く何か作ろうかと思って」
「サンドイッチでよければすぐに用意出来ますよ」
「そうね……折角だし、お願い出来るかしら?」
「かしこまりー!」
自分で作るつもりではいたが、
「ありがとう。助かるわ」
「いえいえ。いつでもどうぞ」
「……そういえば、
若干の間が出来てしまったあたりが、対人弱者であることの証左であった。
少し前までは、意識的に他人との関わりを絶っていた凪だ。こうして誰かを探すという行為そのものが、なんというか、少し気恥ずかしかったのだ。別に後ろめたいことなど何も無いのだから、堂々と尋ねればよいだけなのに。なんとも面倒な性格だが、こればかりはそう簡単に慣れそうもなかった。
「オリオリならさっき、庭のあたりで
どうやら凪の推理は概ね当たっていたらしい。
そうして
「そーっ……」
擬音を口にしながら、忍び足で館内に侵入するメイドが一人。
いわずもがな、その正体は
「……何をしているのかしら?」
「違うんです。ちょっとめずらしい虫を捕まえただけで……いえ、もちろん今から捨てようと――――あ、よかった! お嬢様でしたか!」
初手から言い訳を始めた
「捨ててきなさい」
「えー」
えー、ではない。
弱点らしい弱点などこれといって見当たらない、完全無欠のお嬢様たる凪ではあるが、実はあまり虫が好きではないのだ。本人曰く『好きではないだけで、別に苦手というわけではない』とのことだが、それが苦し紛れの強がりであることは誰の目にも明らかである。故に目の色を変えて叱責することはないものの、館内への持ち込みを認めるほど寛容でもなかった。
「でもほら、確認の意味でも一応見て頂けませんか?」
(確認……?)
「――――いいわ、一応見てあげる。ただし
そう言って玄関の扉を指差す凪。『
「あ、ホントですか? そうしてもらえると助かります。
確かに
しかしそんな凪の予想は、斜め上方向に外れることとなる。
「これなんですけど……」
そうして
「
「いろいろ言いたいことはあるけれど……まず、隠してどうするつもりだったのよ……」
「一応尋問したあと、夜になったらこっそりリリースしようかなと」
番犬としては優秀だが、思考はまずまずサイコであった。
ともあれ、凪には得心がいった。
「はぁ……まぁいいわ。やっぱり捨ててきなさい」
「ですよね。万が一、お嬢様の知り合いとかだったらどうしようとか思ったんですけど……違ったのなら良かったです。じゃあ適当に捨てて――――」
玄関の扉が開き、外出していた
「あらあら……? こんなところで一体何を――――おや、そちらは……?」
そうして数瞬固まった後、珍しく大きな声を上げた。
「――――だ、旦那様!?」