展望台から降りた織羽を待っていたのは、サングラスをかけた厳ついオッサンであった。
「げっ」
スーツ姿に無精髭、顔の傷とサングラス。その風貌はどう見ても一般人ではない。こんな厳つい大男が壁を背に待ち伏せていたとあっては、織羽でなくとも嫌な気分になる筈だ。少なくとも、これが国内最高位の探索者だとは誰も思わないだろう。そんな如何にもヤの付く自営業っぽいオッサン――――天久隆臣は、織羽の姿を見るなり堪えきれずに吹き出した。
「おう、ちゃんと仕事して……ぶふっ! だはははは!」
「何でまだ居るのさ……」
織羽はゴリラとの遭遇を厭うたからこそ、展望台でダラダラと時間稼ぎをしたのだ。
それが結局遭遇することになったのだから、嫌そうな声のひとつも出るというものである。
「あ? そりゃあお前、俺が嵐士の護衛になったからだよ。つっても、総会の間だけな」
「いや知らんし。そうじゃなくて……折角時間ズラしたのに、何でまだ帰ってないんだよって事」
「いやなに、お前に連絡事項があってな。あとは渡しておく資料も。郵送してもよかったんだが……まぁついでだ、ついで」
どうやら隆臣は、織羽が降りてくるのをわざわざ待っていたらしい。一体いつから待っていたのかは分からないが、要するに織羽の時間稼ぎは最初から無駄だった、ということになる。では一組織の長にそんな暇があるのかと言えば、残念ながらある。何故なら面倒な事務仕事全般は、その大半を密が処理しているからだ。つまり隆臣は、現場に出ていない時に限って言えば、それなりに暇だったりするのだ。
何気ない会話の中で、ふと織羽は違和感を感じた。
隆臣はつい今しがた、九奈白当主のことを馴れ馴れしくも名前で呼んでいた。そこに先日の九奈白嵐士の態度を合わせれば、二人が知り合いであることは自明の理である。
「……っていうか、やっぱ知り合いだったんだ?」
「嵐士のことか? あー、言ってなかったっけか……? まぁなんだ、ちょっとした昔なじみだよ。っつーか、そうでもなけりゃお前を貸したりしねーよ」
「そうであっても貸すなよ。公私混同はんたーい」
「いいじゃねぇか。お前も案外楽しくやってんだろ?」
にやりと笑みを深くした隆臣は、とてもシラを切っているようには見えなかった。
隠していたというわけではなく、おそらくは本当に忘れていたか、伝えるほどの事ではないと考えたのだろう。実際、二人が知り合いだったからといって何があるわけでもない。迷宮情報調査室まで回ってきた依頼にしては、少し理由が弱い。そう思っていた織羽の疑問が氷解しただけのことである。隆臣が微妙に言葉を濁したあたり、あるいは別の理由――――例えば嵐士に対して、何か借りのようなものがあったのかもしれない。ただ、どちらにしても織羽は今回の依頼を受けていただろう。加えて隆臣の言う通り、織羽は今の生活をそれなりに楽しんでいる。つまりはどうでもよい話ということだ。
そうして一頻り笑った後、隆臣が紙束を投げて寄越す。
織羽がぺらりと紙をめくってみれば、そこには怪しい犯罪者達の情報が記載されていた。
「これは?」
「例の組織――――『黒霧』っつーんだけどよ。それの要注意リストだ」
どうみても隠し撮りっぽい不鮮明な顔写真に、プロフィールや容疑といった穴だらけの情報がずらりと並ぶ。どこぞの刑事ドラマにでも出てきそうな、ひどくありきたりなファイルであった。だが言うまでもなく、これは立派な機密情報である。今どき紙で、などと思わなくもないが、口には出さない。言ったところで『お前それ星輝姫の前でも同じこと言えんの?』という、お決まりのカウンターを貰うだけである。
「明星と話したなら分かってるだろうが……2回も失敗した奴さんには後が無い。十中八九妨害はあるぜ。まぁ一応、お前も目ぇ通しとけ」
「っていってもなぁ……肝心な事は何も分からないんだけど? 酷いのだと、顔と性別くらいしか載ってないのあるじゃん」
所有している技能まで書かれているものもあれば、その殆どが空欄となっているものまで。記載されている情報量には大きなバラつきがあった。だが逆を言えば、迷宮情報調査室の力を以てしてもこれが限界であるということ。敵組織の強大さがよく分かるというものである。
「文句を言うな。それでも充実した方なんだよ。クロアからの情報提供がなけりゃあ、もっとガバガバだった」
「おやおや。天下の六位様が、随分と情けのないことで」
「オイオイ。言うじゃねぇか、変態女装野郎の一位様がよ」
目くそ鼻くそを笑う、とでも言うべきだろうか。
情報面ではあまり役に立っていない織羽と、女装をさせた張本人の隆臣。容赦なくブーメランを投げあう二人を止める者は、残念ながらこの場にはいなかった。
「お? やんのか?」
「あ? なんだぁテメェタコ、コラ?」
田舎のヤンキーよろしく、激しいメンチの切り合いを行う。
しかし、今にも取っ組み合いが始まるかと思われたまさにその時、二人の頭部へと衝撃が走った。頭を押さえる二人のちょうど中間には、千里が呆れた顔で立っていた。恐らくはそれで殴ったのであろう、彼女の両手は手刀の形になっている。一体いつからそこにいたのか、相変わらずの隠密技術であった。
「はいはい、やめなさーい」
言葉と視線、そして謎の圧を巧みに操る、そんな密の仲裁とはまた違う。
有り体に言えば、千里の仲裁は痛いのだ。高位の探索者である織羽と隆臣をして、若干涙目になる程度には。ネチネチと陰湿に詰め寄られる方がお好みか、あるいは後腐れがない代わりに強烈なダメージを負うか。どちらが良いかと言われれば、中々に難しいところである。
「ほら室長、用件は済んだんでしょ? もう帰るよ」
「は、はい……」
「オリも。そろそろ護衛対象者と合流しなきゃマズいんじゃないの?」
「は、はい……」
時刻はすでに昼前であり、織羽は凪と合流しなければならない。つい先程、花緒里から『午前の打ち合わせが終わりました』と連絡があったからだ。隆臣は隆臣で、各地を忙しく飛び回る嵐士について回らければならない。千里の言う通り、無駄に遊んでいるような時間はなかった。
なお『Principal』とは、いわゆる業界用語のようなものである。一般的には『重要な』という意味の英語であるが、ボディーガード界隈では護衛・警護対象者の事をそう呼ぶのだ。他にも『Protectee』などと呼ぶ場合があるが、基本的には同じ意味合いである。また、護衛対象をクライアントと混同して呼ぶ場合もあるが、厳密に言えばプリンシパルと依頼人は別物だ。依頼人とは読んで字の如く、料金を支払い護衛を依頼した人物のことを指す。そしてプリンシパルとは、実際に護衛を受ける人物の事を指す。織羽のケースで言えば、凪が『護衛対象者』で、嵐士が『依頼人』ということになる。
また通常、公的な護衛には義務が伴う。『守る義務』と『守られる義務』だ。
その点、迷宮情報調査室は公的機関ではあるものの、護衛専門の組織ではない。あくまでダンジョン関連任務の一環として、必要であれば護衛も行うといった程度の位置づけだ。更に凪の護衛任務は、上からの指示というわけではない。故に扱いとしては民間企業による護衛サービス業務に近く、そうした強制力はなかったりする。つまり凪が『守られたくない』と思えば、護衛そのものを拒否することが出来るということだ。初期の凪ならばともかく、近ごろの様子を見れば、まずそんなことにはならないであろうが。なおゴリラによる嵐士の護衛は、諸々の情勢を鑑みたお上からの命令、つまりは公的な方の護衛だったりする。閑話休題。
そうしてお姉さんからシンプルに怒られた二人は、すごすごと歩き出す。まるで子どものように、互いに舌打ちをしながら。
「もぅ……それじゃあオリ、私達は行くから。何かあったらいつでも連絡してね? 今まで休んでた分、お姉さんがキミを助けてあげよう!」
「わーい」
お茶目なウィンクをひとつ飛ばし、ついでに態度の悪いゴリラのケツを蹴り上げながら、そうして千里は去っていった。
これまで数ヶ月、慣れない環境で殆ど孤軍奮闘状態にあった織羽。なんだかんだと楽しんでいる反面、やはり正体バレなどの気苦労は多いのだ。しかし久しぶりとなる身内との再会に、織羽の表情はすっかり緩んでいた。特に千里の存在は大きい。彼女が戻ったとあれば、対応出来る局面がぐっと広がるであろうから。
(っと……マズいマズい。メイドたるもの、いかなる時も主人を待たせるべからず!)
もちろん、急いでいるからといって駆け出すような、そんな無作法は行わない。
偉大なる先生の教えを思い出し、ゆっくりと上品な足取りで、織羽は凪達の待つ展示棟へと向かった。