時を遡ること数週間。
セーフハウスにて、織羽と風呂上がりのクロアが出会った後のこと。二人は揃って市内を歩いていた。元々あった織羽の買い出し予定に、クロアが無理やりくっついてきた形である。中身の残念さ具合にさえ目を瞑れば、かなり見目の良い二人だ。雑踏の中にあってなお、すれ違う者達からは視線を集めていた。
とはいえ、悪目立ちするという程でもない。メイド服など殊更珍しいものでもなし、精々が『今の人キレイだったね』といった程度のものである。しかし目的の店へと向かっている最中、俄にクロアが舌打ちをした。嫌悪感からというより、どちらかと言えば呆れの気持ちが強い舌打ちだった。
「……チッ」
「敵ではありませんよ」
「……わかってるけどぉ」
すれ違う者達からの視線とは異なる、値踏みされるような視線を感じた所為であった。明確な指向性を持って送られたその視線が、クロアの神経を逆撫でにしたのだ。一方で、織羽の態度はまるで変わらない。その視線には敵意がなく、恐らくは好奇心から来るものだと分かっていたからだ。事実、ほんの数秒後には視線が感じられなくなっていた。つまりは単純に、クロアの沸点が低いというだけの話である。さすがの織羽も、まさか徹夜明けの治安維持部隊職員から目の保養にされているなどとは思わなかったが。
そうして買い出しを終え、別れを渋るクロアを引き剥がした後。白凪館へと戻るため、荷物片手に街を歩いていた時のことだった。正面から、一人の女性が歩いてくるのが見えた。真っ赤な髪と、真紅の瞳。科を作って歩くその姿は、まるでモデルのよう。ただ歩いているだけで目を引くような、そんな美女だった。しかしその女性は、これといって目立っているわけではなかった。先ほど織羽やクロアが集めたような視線が、その女性に対しては一切向けられていなかったのだ。道行く誰もが、女性の存在に気づいていないように。
(……何だ? 何か違和感があるような……)
何かを疑っているわけではない。怪しいと思っているわけでもない。ただなんとなく、例えようのない違和感を感じたのだ。
これもある種の職業病かと考えつつ、まだ遠目に居るうちにその女性を観察しようとした織羽。そうして視線を動かさぬよう、そっと視界の端に女性を捉える。その瞬間、織羽の視界はぐにゃりと歪んだ。
否、厳密には視界の一部にモヤがかかったのだ。
水の入ったグラス越しに何かを見るような、あるいは夏の陽炎のような。そこにあると分かっていながら、何故かピントだけがうまく合わない。そんな不思議な感覚だった。当然織羽は訝しんだ。偶然と呼ぶにはあまりにも不自然だったから。そうして再び女性へと視線を向ける織羽。今度は視界に捉えるだけではなく、しっかりと意識を向けて。すると先程までの違和感が嘘であったかのように、女性の姿がハッキリと映っていた。
(……気のせい?)
そんな考えが脳裏を過るが、仮に先程の違和感が気のせいだったとして、しかし警戒するに越したことはない。
怪しい女性は既に目と鼻の先。あと数歩も歩けばすれ違う距離まで来ていた。そうしていよいよ、織羽の真横を女性が通った時――――。
豈図らんや、何も起きなかった。
攻撃を受けることもなく、妙な動きをすることもなく。ただ良い香りが織羽の鼻をくすぐるのみ。
(……考え過ぎだったかな)
先の襲撃事件の所為か、はたまた直近に控えた総会の所為か。
どうやら織羽は知らずの内、肩に力が入っていたらしい。自身の空回りを反省しつつ、ちらりと後方を振り返る。するとそこには、見るからに上等そうなハンカチが落ちていた。状況から察するに、恐らくあの怪しかった女性の落とし物であろう。このままでは他の通行人に踏まれてしまうと考えた織羽は、落ちたハンカチを素早く拾い上げ、女性の背中へと声をかけた。
「あの、落としましたよ」
「……? あら、わたくし?」
返ってきたのは、外見通りの美しい声音であった。加えて、流暢な日本語であった。一人称は随分と独特なものであったが。
「えぇ。これ、貴女のものではありませんか?」
「……ふふ」
何がどう気に入ったのやら。
女は妙に煽情的な仕草で、紅の引かれた唇をちろりと舐める。じっとりと湿り気を帯びた赤い瞳が、織羽を捉えていた。その瞳の中には、ある種の狂気すらも含まれているように見えた。
「ええ、ええ。そうね、確かにその通りだわ。ああ、拾ってくださってありがとう」
「いえ。それでは、これで失礼致します」
ただそれだけを告げ、織羽は踵を返した。ただ落とし物を拾って、それを教えただけなのだ。歴戦のナンパ師ならばともかく、コミュ弱の織羽では、それ以上のやり取りなど発生する筈もない。背中に微妙な視線を感じるような気もしたが、しかし織羽は振り返らなかった。先の女の態度を見て、織羽には確信めいたものがあった。通行人が彼女を見ないようにしていたのにも、これならば説明がつく。つまりは――――。
(やっぱりそうだ! アレが有名な痴女ってヤツだ……! そりゃあ皆見ないフリするよね。流石は大都会九奈白市、色んな変態を揃えてるなぁ。いとおかし)
* * *
「ということがありまして。ハッキリとは覚えてないんですけど、その時の痴女にちょっと似てるかなー、と」
「そんなの普通忘れます?」
しれっと言い放つ織羽。画面の向こうには、呆れて肩を竦める密の姿が見える。しかし呆れるだけで、それ以上に叱責するなどといったことは無い。つい忘れがちではあるが、織羽のこれまでの人生は少々特殊だ。そんな織羽の感覚が多少ズレていたとして、それを責めるのは些か酷というものだろう。それを理解しているからこそ、密は呆れるに留めたのだ。無論内心では、『そんな怪しいヤツが居たのなら、さっさと報告しなさい』と言いたいところであったが。
「……まぁいいでしょう。織羽の話に出てきた女が本当に『Ⅸ』であったなら、敵は既に市内への侵入を果たしているということです。であれば、いつ動き出して不思議ではありません。以降『Ⅸ』については、どんな些細な情報でも報告するように」
「ちょっとクロアさん、ちゃんと聞いてます?」
「あなたに言っているんですよ、織羽」
「あ、はい」
やはり織羽は怒られた。