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第72話

 時を遡ること数週間。

 セーフハウスにて、織羽おりはと風呂上がりのクロアが出会った後のこと。二人は揃って市内を歩いていた。元々あった織羽おりはの買い出し予定に、クロアが無理やりくっついてきた形である。中身の残念さ具合にさえ目を瞑れば、かなり見目の良い二人だ。雑踏の中にあってなお、すれ違う者達からは視線を集めていた。


 とはいえ、悪目立ちするという程でもない。メイド服など殊更珍しいものでもなし、精々が『今の人キレイだったね』といった程度のものである。しかし目的の店へと向かっている最中、俄にクロアが舌打ちをした。嫌悪感からというより、どちらかと言えば呆れの気持ちが強い舌打ちだった。


「……チッ」


「敵ではありませんよ」


「……わかってるけどぉ」


 すれ違う者達からの視線とは異なる、値踏みされるような視線を感じた所為であった。明確な指向性を持って送られたその視線が、クロアの神経を逆撫でにしたのだ。一方で、織羽おりはの態度はまるで変わらない。その視線には敵意がなく、恐らくは好奇心から来るものだと分かっていたからだ。事実、ほんの数秒後には視線が感じられなくなっていた。つまりは単純に、クロアの沸点が低いというだけの話である。さすがの織羽おりはも、まさか徹夜明けの治安維持部隊ガーデン職員から目の保養にされているなどとは思わなかったが。


 そうして買い出しを終え、別れを渋るクロアを引き剥がした後。白凪館へと戻るため、荷物片手に街を歩いていた時のことだった。正面から、一人の女性が歩いてくるのが見えた。真っ赤な髪と、真紅の瞳。科を作って歩くその姿は、まるでモデルのよう。ただ歩いているだけで目を引くような、そんな美女だった。しかしその女性は、これといって目立っているわけではなかった。先ほど織羽おりはやクロアが集めたような視線が、その女性に対しては一切向けられていなかったのだ。道行く誰もが、女性の存在に気づいていないように。


(……何だ? 何か違和感があるような……)


 何かを疑っているわけではない。怪しいと思っているわけでもない。ただなんとなく、例えようのない違和感を感じたのだ。

 これもある種の職業病かと考えつつ、まだ遠目に居るうちにその女性を観察しようとした織羽おりは。そうして視線を動かさぬよう、そっと視界の端に女性を捉える。その瞬間、織羽おりはの視界はと歪んだ。


 否、厳密には視界の一部にモヤがかかったのだ。

 水の入ったグラス越しに何かを見るような、あるいは夏の陽炎のような。そこにと分かっていながら、何故かピントだけがうまく合わない。そんな不思議な感覚だった。当然織羽おりはは訝しんだ。偶然と呼ぶにはあまりにも不自然だったから。そうして再び女性へと視線を向ける織羽おりは。今度は視界に捉えるだけではなく、しっかりと意識を向けて。すると先程までの違和感が嘘であったかのように、女性の姿がハッキリと映っていた。


(……気のせい?)


 そんな考えが脳裏を過るが、仮に先程の違和感が気のせいだったとして、しかし警戒するに越したことはない。

 怪しい女性は既に目と鼻の先。あと数歩も歩けばすれ違う距離まで来ていた。そうしていよいよ、織羽おりはの真横を女性が通った時――――。


 豈図あにはからんや、何も起きなかった。

 攻撃を受けることもなく、妙な動きをすることもなく。ただ良い香りが織羽おりはの鼻をくすぐるのみ。


(……考え過ぎだったかな)


 先の襲撃事件の所為か、はたまた直近に控えた総会の所為か。

 どうやら織羽おりはは知らずの内、肩に力が入っていたらしい。自身の空回りを反省しつつ、ちらりと後方を振り返る。するとそこには、見るからに上等そうなハンカチが落ちていた。状況から察するに、恐らくあの女性の落とし物であろう。このままでは他の通行人に踏まれてしまうと考えた織羽おりはは、落ちたハンカチを素早く拾い上げ、女性の背中へと声をかけた。


「あの、落としましたよ」


「……? あら、わたくし?」


 返ってきたのは、外見通りの美しい声音であった。加えて、流暢な日本語であった。一人称は随分と独特なものであったが。


「えぇ。これ、貴女のものではありませんか?」


「……ふふ」


 何がどう気に入ったのやら。

 女は妙に煽情的な仕草で、紅の引かれた唇をちろりと舐める。じっとりと湿り気を帯びた赤い瞳が、織羽おりはを捉えていた。その瞳の中には、ある種の狂気すらも含まれているように見えた。


「ええ、ええ。そうね、確かにその通りだわ。ああ、拾ってくださってありがとう」


「いえ。それでは、これで失礼致します」


 ただそれだけを告げ、織羽おりはは踵を返した。ただ落とし物を拾って、それを教えただけなのだ。歴戦のナンパ師ならばともかく、コミュ弱の織羽おりはでは、それ以上のやり取りなど発生する筈もない。背中に微妙な視線を感じるような気もしたが、しかし織羽おりはは振り返らなかった。先の女の態度を見て、織羽おりはには確信めいたものがあった。通行人が彼女を見ないようにしていたのにも、これならば説明がつく。つまりは――――。


(やっぱりそうだ! アレが有名な痴女ってヤツだ……! そりゃあ皆見ないフリするよね。流石は大都会九奈白市、色んな変態を揃えてるなぁ。いとおかし)




      * * *




「ということがありまして。ハッキリとは覚えてないんですけど、その時の痴女にちょっと似てるかなー、と」


「そんなの普通忘れます?」


 しれっと言い放つ織羽おりは。画面の向こうには、呆れて肩を竦めるひそかの姿が見える。しかし呆れるだけで、それ以上に叱責するなどといったことは無い。つい忘れがちではあるが、織羽おりはのこれまでの人生は少々特殊だ。そんな織羽おりはの感覚が多少ズレていたとして、それを責めるのは些か酷というものだろう。それを理解しているからこそ、ひそかは呆れるに留めたのだ。無論内心では、『そんな怪しいヤツが居たのなら、さっさと報告しなさい』と言いたいところであったが。


「……まぁいいでしょう。織羽おりはの話に出てきた女が本当に『ナイン』であったなら、敵は既に市内への侵入を果たしているということです。であれば、いつ動き出して不思議ではありません。以降『ナイン』については、どんな些細な情報でも報告するように」


「ちょっとクロアさん、ちゃんと聞いてます?」


「あなたに言っているんですよ、織羽おりは


「あ、はい」


 やはり織羽おりはは怒られた。

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