九奈白コンベンションセンター、展示棟正面入口。
現在時刻は朝七時。まだ開場前の時間だが、しかし棟内には既に多くの人間が集まっていた。スタッフはもちろんのこと、日本を代表する様々な企業の社員たちが、朝の早くからバタバタと動き回っている。恐らくは展示の最終確認や、最後の詰めを行っているのだろう。なにせ世界的に注目度の高い一大イベントだ。ここでどれだけ自社製品を売り込めるかによって、この先数年間の売上が決まると言っても過言ではない。つまり彼らにとってこの日は、社運を賭けた大一番であるということ。失敗など万が一にもあってはならないのだ。
忙しく動き回る、そんな他社の様子を気に留めることもなく。
凪はゆっくりと『
「そこ、照明の角度によっては見栄えが悪いわね。もう少し立てられるかしら? ……ええ、そう。それで行きましょう」
凪はイベント中、常に店先へと立つわけではない。
店先で行うことなど、見学に来た業界の人間へ自社製品の売り込みを行ったり、たまに解説をする程度だ。わざわざ責任者である凪がすることでもないし、するわけにもいかない。それに彼女には、挨拶に来たお偉いさん方を捌くという、彼女にしか出来ない仕事があった。そう、凪は挨拶を受ける側なのだ。であればこそ、ふらふらと動き回るわけにも行かないというわけだ。故に時折様子を見に来るつもりでいるが、自社スペースについては基本的にはスタッフに任せるつもりであった。
「……まぁ、こんなところかしら? 本当は商品のデモをしたかったのだけれど……」
そういってちらりと、
凪はこの準備期間の間にたった一度だけ、商品の実演をお願い出来ないかと
「お断りいたします。私はメイドであって、『
「ケチ。別にいいじゃない。減るものじゃないんだから」
珍しく、まるで駄々っ子のように唇を尖らせる凪。
近頃の彼女は機嫌が良い時、こうした一面も見せるようになった。あるいは年相応のお嬢様らしく、『自身のメイドを自慢したい』という気持ちもあるのかもしれない。だがいずれにせよ、
「では私が『乳を揉ませろ』と言えば、お嬢様はどうなさるおつもりで? 減るものではないからと胸を差し出しますか?」
「それとこれとは話が違う気もするけれど……そうね、貴女になら構わないわよ?」
「だが断る」
展示スペースの確認を終えた後、二人は下らないやり取りを交わしつつ、上階にあるVIPルームへと向かう。VIPルームとはまた大層な呼び方ではあるが、要するに楽屋のようなものだ。挨拶を受ける側といっても、凪に顔を通しておきたい人間など吐いて捨てるほど存在する。それら全員の挨拶を許可していては、凪は一切身動き出来なくなってしまう。故に凪へと面通しが許されるのは、ごく一部の重要人物のみということになる。
凪自身は、大げさな仕組みだと思っている。自分はまだそこまで大した人間ではないし、偉そうに振る舞えるような人間でもない、と。界隈の最先端を走る企業のトップとはいえ、所詮はただの小娘に過ぎないと。そう思う一方で、しかしどうしたって『九奈白』がついて回るということも理解している。ここで『自分はお父様とは関係ない』などと駄々を捏ねることが、どれだけ浅慮な行動なのかを理解している。だからこうして、無駄に偉そうな珍獣ポジションを甘んじて受け入れているのだ。
「はぁ……これから数時間、知らない大人からの挨拶攻めを受けるのかと思うと……憂鬱だわ」
「しかもそのほとんどが、お嬢様よりひと回りもふた回りも歳上です。見様によっては如何わしいですよね」
「貴女の発想が、ね」
そうしてVIPルームへと辿りついた二人。
室内には既に
「お疲れ様です、お嬢様。こちらをどうぞ」
「ええ、ありがとう」
三人のいるVIPルームは、まさに至れり尽くせりといった様子であった。
ゆったりとした高級ソファ、四人がけのテーブルセット。前面はガラス張りとなっており、階下の展示スペースが一望出来た。モニターも複数台設置されており、それぞれ別の開場の様子などが映し出されている。例えるなら競馬場に於ける馬主席か、個室タイプのダービールームが近いだろうか。しかし競馬と違い、何を観覧するというわけでもないため、本当にただの控室でしかないのだが。逆に『ただの控室にここまで拘るか』とでも言いたくなるような、そんな部屋だった。ちなみにフロア内にはレストランまであるため、基本的にはこのフロアで全てが完結するようになっている。開場から閉場までどうぞごゆるりと、といったところか。
「あ、凄い。調理も出来ますよココ!」
部屋から繋がる扉をひとつ抜け、
「へぇ……そういえば朝食がまだだったわね。何か簡単なものでも作ってもらおうかしら?」
「それは構いませんが……外のレストランじゃなくていいんですか? 高級感スゴかったですよ?」
「いいのよ。私はそこらの高級レストランより、貴女達の作る料理のほうが好きだもの」
そう言ってほんの少し、注視しなければ分からないほど僅かに頬を紅潮させる凪。
いつぞやのツン期を知っている
「お任せあれ! では
「は?」
「アーリオ・オーリハをご覧に入れましょう!」
「聞き直したわけではなく。気のせいかしら? なんだか、死ぬほどつまらない冗談が聞こえたのだけれど」
「にんにくは抜きますのでご心配なく。つまりアーリオ部分がなくなって、もうただのオーリハというわけです。私を召し上がれ、といったところでしょうか? ンッフフ……それでは」
戦慄の洒落だけを残し、さっさと調理室へと引っ込んでしまう
開場のアナウンスが流れたのは、丁度
* * *
「司令部より各位。現時刻を以て総会初日が開場となりました。状況の報告を」
イヤホンから聞こえてくるのは
総会とは、どこぞの巨大同人イベントのようなものではない。身元のしっかりとした者たちが、秩序と落ち着きをもって行動する場である。来場者でごった返すだとか、トイレに列をつくるだとか、そんなおもしろイベントは発生のしようがない。加えて
「えっとぉ……こちら『
本日のクロアはミニスカートにパーカー、そして調査室の制服でもある黒スーツのジャケットを肩に羽織った謎スタイルだ。怪しいというわけではなく、目立つというわけでもないが、しかし本人の年齢もあってそれなりに場違いではある。そして何より暑かった。
会場内の警備を行うということは、それなりに人目のある場所を移動するということだ。故に今回は、各員にコードネームが設定されていた。『
「こちら『
クロアの応答に続いたのは
展望塔より島内全域へと監視の目を光らせている彼女は、自身を『ノスリ』と名乗った。ノスリというのは猛禽の一種で、実際の漢字表記では『
なお、
「あー……こちら『ゴリラ』。コードネームの他は異常ナシ」
そして最後に応答したのは隆臣だった。
しかし彼の声音には、心做しか哀愁が漂っていたという。