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第73話

 九奈白コンベンションセンター、展示棟正面入口。

 現在時刻は朝七時。まだ開場前の時間だが、しかし棟内には既に多くの人間が集まっていた。スタッフはもちろんのこと、日本を代表する様々な企業の社員たちが、朝の早くからバタバタと動き回っている。恐らくは展示の最終確認や、最後の詰めを行っているのだろう。なにせ世界的に注目度の高い一大イベントだ。ここでどれだけ自社製品を売り込めるかによって、この先数年間の売上が決まると言っても過言ではない。つまり彼らにとってこの日は、社運を賭けた大一番であるということ。失敗など万が一にもあってはならないのだ。


 忙しく動き回る、そんな他社の様子を気に留めることもなく。

 凪はゆっくりと『Le Calmeル・カルム』のスペースをチェックして回った。


「そこ、照明の角度によっては見栄えが悪いわね。もう少し立てられるかしら? ……ええ、そう。それで行きましょう」


 凪はイベント中、常に店先へと立つわけではない。

 店先で行うことなど、見学に来た業界の人間へ自社製品の売り込みを行ったり、たまに解説をする程度だ。わざわざ責任者である凪がすることでもないし、するわけにもいかない。それに彼女には、挨拶に来たお偉いさん方を捌くという、彼女にしか出来ない仕事があった。そう、凪は挨拶を受ける側なのだ。であればこそ、ふらふらと動き回るわけにも行かないというわけだ。故に時折様子を見に来るつもりでいるが、自社スペースについては基本的にはスタッフに任せるつもりであった。


「……まぁ、こんなところかしら? 本当は商品のデモをしたかったのだけれど……」


 そういってちらりと、織羽おりはの方へと視線を向ける凪。

 凪はこの準備期間の間にたった一度だけ、商品の実演をお願い出来ないかと織羽おりはに頼んだことがあった。しかしその当時と同じく、恭しく背後に控えている従者はツンと澄ました顔で、やはり拒否を告げた。


「お断りいたします。私はメイドであって、『Le Calmeル・カルム』の社員ではありませんので」


「ケチ。別にいいじゃない。減るものじゃないんだから」


 珍しく、まるで駄々っ子のように唇を尖らせる凪。

 近頃の彼女は機嫌が良い時、こうした一面も見せるようになった。あるいは年相応のお嬢様らしく、『自身のメイドを自慢したい』という気持ちもあるのかもしれない。だがいずれにせよ、織羽おりはに承諾出来るはずもない。目立ちたくないのだから当然だ。それが分かっているからこそ、凪も本気で命令したりはしないのだが。


「では私が『乳を揉ませろ』と言えば、お嬢様はどうなさるおつもりで? 減るものではないからと胸を差し出しますか?」


「それとこれとは話が違う気もするけれど……そうね、貴女になら構わないわよ?」


「だが断る」


 展示スペースの確認を終えた後、二人は下らないやり取りを交わしつつ、上階にあるVIPルームへと向かう。VIPルームとはまた大層な呼び方ではあるが、要するに楽屋のようなものだ。挨拶を受ける側といっても、凪に顔を通しておきたい人間など吐いて捨てるほど存在する。それら全員の挨拶を許可していては、凪は一切身動き出来なくなってしまう。故に凪へと面通しが許されるのは、ごく一部の重要人物のみということになる。Le Calmeル・カルムのスタッフへと挨拶をしたい旨を告げ、資格ありと判断されれば部屋へと通される形だ。


 凪自身は、大げさな仕組みだと思っている。自分はまだそこまで大した人間ではないし、偉そうに振る舞えるような人間でもない、と。界隈の最先端を走る企業のトップとはいえ、所詮はただの小娘に過ぎないと。そう思う一方で、しかしどうしたって『九奈白』がついて回るということも理解している。ここで『自分はお父様とは関係ない』などと駄々を捏ねることが、どれだけ浅慮な行動なのかを理解している。だからこうして、無駄に偉そうな珍獣ポジションを甘んじて受け入れているのだ。


「はぁ……これから数時間、知らない大人からの挨拶攻めを受けるのかと思うと……憂鬱だわ」


「しかもそのほとんどが、お嬢様よりひと回りもふた回りも歳上です。見様によっては如何わしいですよね」


「貴女の発想が、ね」


 そうしてVIPルームへと辿りついた二人。

 室内には既に花緒里かおりが待機しており、熱々のお茶を用意してくれていた。


「お疲れ様です、お嬢様。こちらをどうぞ」


「ええ、ありがとう」


 三人のいるVIPルームは、まさに至れり尽くせりといった様子であった。

 ゆったりとした高級ソファ、四人がけのテーブルセット。前面はガラス張りとなっており、階下の展示スペースが一望出来た。モニターも複数台設置されており、それぞれ別の開場の様子などが映し出されている。例えるなら競馬場に於ける馬主席か、個室タイプのダービールームが近いだろうか。しかし競馬と違い、何を観覧するというわけでもないため、本当にただの控室でしかないのだが。逆に『ただの控室にここまで拘るか』とでも言いたくなるような、そんな部屋だった。ちなみにフロア内にはレストランまであるため、基本的にはこのフロアで全てが完結するようになっている。開場から閉場までどうぞごゆるりと、といったところか。


「あ、凄い。調理も出来ますよココ!」


 部屋から繋がる扉をひとつ抜け、織羽おりはが見つけたのはちょっとした調理室であった。花緒里かおりが先程淹れたお茶も、恐らくはここで湯を沸かしたのであろう。沸かしたといっても、ボタンひとつで熱々のお湯がいつでも使い放題なのだが。


「へぇ……そういえば朝食がまだだったわね。何か簡単なものでも作ってもらおうかしら?」


「それは構いませんが……外のレストランじゃなくていいんですか? 高級感スゴかったですよ?」


「いいのよ。私はそこらの高級レストランより、貴女達の作る料理のほうが好きだもの」


 そう言ってほんの少し、注視しなければ分からないほど僅かに頬を紅潮させる凪。

 いつぞやのツン期を知っている織羽おりは花緒里かおりからすれば、なんとまぁ可愛らしい話ではないか。


「お任せあれ! では織羽おりは特製のアーリオ・オーリオ……あっ……アーリオ・オーリハをご覧に入れましょう」


「は?」


「アーリオ・オーリハをご覧に入れましょう!」


「聞き直したわけではなく。気のせいかしら? なんだか、死ぬほどつまらない冗談が聞こえたのだけれど」


「にんにくは抜きますのでご心配なく。つまりアーリオ部分がなくなって、もうただのオーリハというわけです。私を召し上がれ、といったところでしょうか? ンッフフ……それでは」


 戦慄の洒落だけを残し、さっさと調理室へと引っ込んでしまう織羽おりは。残された凪と花緒里かおりは顔を見合わせ、しかしまぁいつもどおりの奇行かと、ただ小さく息を吐き出すのみであった。


 開場のアナウンスが流れたのは、丁度織羽おりはが調理室から戻ってきた頃だった。




       * * *




「司令部より各位。現時刻を以て総会初日が開場となりました。状況の報告を」


 イヤホンから聞こえてくるのはひそかの声。

 総会とは、どこぞの巨大同人イベントのようなものではない。身元のしっかりとした者たちが、秩序と落ち着きをもって行動する場である。来場者でごった返すだとか、トイレに列をつくるだとか、そんなおもしろイベントは発生のしようがない。加えて治安維持部隊ガーデンも出張ってきており、会場内を警備しているのだ。故に現状報告とはいうものの、黒鴉くろあはただ持ち場をうろついているだけに過ぎなかった。もちろん彼女には学園生としての一面もあるため、可能な限り顔を見られないように、だ。


「えっとぉ……こちら『鉄槌マレウス』、だっけぇ? クソ暑いこと以外は異常なしだよぉ」


 本日のクロアはミニスカートにパーカー、そして調査室の制服でもある黒スーツのジャケットを肩に羽織った謎スタイルだ。怪しいというわけではなく、目立つというわけでもないが、しかし本人の年齢もあってそれなりに場違いではある。そして何より暑かった。


 会場内の警備を行うということは、それなりに人目のある場所を移動するということだ。故に今回は、各員にコードネームが設定されていた。『鉄槌マレウス』というのはひそかが付けた名前であるが、なかなかどうしてクロアにはハマっていると言えるだろう。


「こちら『野擦ノスリ』。展望塔は風がある分まだマシかなぁ。でももう飽きてきたかなー……あ、異常はナシで」


 クロアの応答に続いたのは千里せんりだった。

 展望塔より島内全域へと監視の目を光らせている彼女は、自身を『ノスリ』と名乗った。ノスリというのは猛禽の一種で、実際の漢字表記では『ノスリ』とされている。ノスリは高い木の上で得物を待ち伏せしたりといった習性を持つ鳥だ。樹上より急降下し、るような匍匐飛行で狩りを行うことからそう呼ばれる。なるほど確かに、狙撃手である彼女にはぴったりのコードネームなのかもしれない。


 なお、千里せんりには狙撃手として致命的な弱点がある。それがこの『飽き性』という点であった。長時間身動ぎひとつせず、スコープを覗き続け、たった一度の機会を待つのが狙撃手の役目だ。しかし千里せんりには忍耐力が皆無であった。本人曰く、『ひとつくらいは欠点あった方が、人間味があっていいでしょ』とのことである。おかげでひどく扱いづらいのだが――――それを補って余りある狙撃の腕が、辛うじて彼女を狙撃手たらしめていた。


「あー……こちら『ゴリラ』。コードネームの他は異常ナシ」


 そして最後に応答したのは隆臣だった。

 しかし彼の声音には、心做しか哀愁が漂っていたという。


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