隆臣の拳が唸り、Ⅸへと迫る。
技能『浸透』を持つ隆臣の攻撃は、防御が出来ない。『浸透』とは、簡単に言えば敵の防御を貫通する類の能力だ。加えて、探索者として鍛え抜かれたその膂力。その性質上、敵に回避を強要する非常に強力な攻撃だった。特に初見の相手には絶大な効果を発揮する、まさに反則級の技能と言えるだろう。そんな一撃必殺の拳が、しかし未だ届かずにいた。
(オイオイオイ、これちょっとヤバいんじゃねぇの?)
届かないというのは比喩ではない。読んで字の如く、物理的に届いていないのだ。
回避を強要するどころか、Ⅸはただ棒立ちで微笑んでいるだけ。だというのに、目に見えない何かに拳が遮られている。まるで真綿を殴るかのように。まるで磁石が反発するかのように。何かに防がれているというよりは、正しく届かない感触。流石の隆臣もこれには焦りを覚えていた。
「意気込みはよかったけど……こうなると退屈だわぁ」
一方のⅨはといえば、隆臣の攻撃を前に小さく欠伸をする始末であった。
(舐めやがって……なら、これならどうだッ)
直接攻撃が駄目ならと、隆臣は地面に転がっていた小石を拾い、Ⅸに向かって全力で投擲する。鍛え抜かれた探索者にとって、投擲は立派な武器になる。そこらのプロ野球選手の投球などよりも余程速い、直撃すればダメージ必至の一投だった。しかしそれも、やはりⅨには届かない。あとほんの数十センチで直撃というところで、石は見えない何かに跳ね返されていた。
(チッ……やっぱ駄目か。風の防壁ならちゃんと抜く筈なんだがな……)
もし隆臣の予想通り、Ⅸの技能が風操作であったなら。軌道をズラされることはあっても、跳ね返すなどといった芸当は不可能な筈なのだ。つまりこの時点で、隆臣の予想は外れていることが確定した。ではこの現象の正体は一体何なのか。隆臣が様々な可能性を思い浮かべた丁度その時、Ⅸが俄に動いた。
「そろそろ飽きてきたし、こっちからも仕掛けちゃおうかしらぁ?」
「ちッ!」
まるで柏手でも打つように、ぽん、と両の手を合わせるⅨ。
たったそれだけの動作で、隆臣は遥か後方へと激しく吹き飛ばされていた。
「うぉぉぉぉぉ!?」
タンブルウィードよろしく、街路の上を転がり滑ってゆく隆臣。ダメージはほとんどなかったが、随分と距離を空けられてしまっていた。これは近接タイプの隆臣にとって、よいとは言えない状況であった。そしてこの攻撃によって、より疑念は深くなる。つい先程『風操作』ではないと思った矢先、紛れもなく風による攻撃が行われたのだ。漸く転がり終えた隆臣は、ただ怪訝な顔を浮かべることしか出来なかった。
「うふふふふ! 随分飛んでいったわぁ!」
楽しそうに笑うⅨの声がひどく癇に障る。これでは殆ど遊び、舐めプレイもいいところだ。名実ともにトップクラスの実力者である隆臣が、子供扱いを受けていた。そうしてこめかみをヒクつかせた隆臣が立ち上がるのと同時、通信用のイヤホンから千里の声が聞こえてくる。その報告を受け、隆臣は漸く合点がいったような顔を見せた。
「……成程、『風』じゃなくて『空気』かよ」
「あらぁ? うふふ、バレちゃったわぁ」
齎されたのは、『天眼』を持つ千里だからこそ見抜けた能力の正体。それは『風操作』ではなく『空気操作』。
このふたつは似ているようで、実際にはまるで意味合いが異なる。風とは要するに空気の移動だ。つまりⅨにとっての『風』とは、ただの副産物に過ぎないということだ。圧縮した空気の壁を纏うことで拳を阻み、音を遮り、雨を弾き、石を跳ね返した。そして空気の密度に差を作ることで光を屈折させ、街中で顔を隠していた。まるで蜃気楼のように。
謂わば『風操作』の完全上位互換だ。探協に報告されているほぼ全ての技能を把握していた隆臣でさえ、そんな技能は聞いたことがなかった。
へらへらと笑うⅨの様子を見るに、知られたところで微塵も痛くないのだろう。さもありなん。どの程度の範囲まで影響を及ぼせるのかは不明だが、もし本当に空気を自在に操れるというのなら、その汎用性は恐ろしいものになるだろう。
「いや、反則だろそりゃ」
「お褒めに預かり光栄だわぁ」
冗談めかして文句を言う隆臣だが、しかし内心では酷く焦っていた。
百戦錬磨の隆臣でさえ、直ちには対策が思いつかなかったのだ。方針が定まらず、顔を顰める隆臣。そんな彼を他所に、Ⅸはそっと右手を突き出した。
「うふふ、例えばこんな事もできちゃうのよぉ?」
「あぁ?――――ッ!」
一体何をするつもりかと眉を潜めた隆臣が、突如として喉を押さえながら膝をつく。
そうして池の鯉のように口を開閉させながら、もがくようにしてⅨを睨みつけた。
「ふふふふっ! すごいすごい! 意識があるのは流石だわぁ! あまり長時間維持は出来ないから、これで人を殺すのは難しいんだけど……どぉ? 苦しいでしょぉ?」
「っぐ……カハッ! ハァッ、ハァッ……テメ……っ!」
「あはははははっ!」
いよいよ我慢出来ないとばかりに、腹を抱えて大笑するⅨ。美しいのは見た目だけ、その邪悪な本性がじわりと滲み出してゆく。
この女は、強い相手と戦うのが好きなクロアとは違うのだ。野心のみで動いていたアールとは違うのだ。この女は、Ⅸはただ他人で遊びたいだけ。人の苦しむ様を見るのが楽しくて仕方がないのだ。隆臣達は知る由もないことだが、『黒霧』のことすらどうだっていいとⅨは考えている。自身の求める快楽の為、そして身を隠すのに都合がいいという、ただそれだけの理由で所属しているに過ぎない。
今日この場に姿を見せたのも、多くの人間で遊べるからというだけの理由だ。それが強い者であればあるほど、死の淵に立った時、自信が崩れ去った時の絶望と恐怖は大きくなる。もちろん総会になど興味はないし、依頼人の顔や都合も知ったことではない。Ⅸは他人の悲嘆に塗れた顔が見たいだけなのだ。
「あぁ可笑しい。もっともっと見せて頂戴。憎悪、嫌悪、絶望、恐怖。それが欲しくてこんな遠い島国まで――――あらぁ?」
一人で勝手に気持ちよくなり始めたⅨが、しかし不意に真顔へ戻る。その視線は隆臣の背後――――林の奥へと向けられていた。そこから姿を現したのは、不運な治安維持部隊の二人であった。
「先輩、先輩! なんかこっちでスゴイ音しましたよ!?」
「ちょっと待ってくれ。何が起こるか分からないんだから、もう少し慎重に――――ッ!?」
「え? なんです? どうしたんすかせんぱ――――え、何この状況」
場違いなドレス姿の女に、膝をつく黒スーツの男。
瞬時に状況を把握し気を引き締める花鶏と、突然の遭遇で呆気にとられる一千華。
「な……天久さん!? これは一体……」
「馬鹿野郎ッ! こっち来んな!」
二人の姿を認めたⅨの口角が、ゆっくりと釣り上がった。
* * *
(これは……ちょっとマズいかな)
スコープ越しに映る光景に、千里は僅かに歯噛みする。
戦況は芳しくなかったが、それでも隆臣がそう簡単にやられるとは考えていなかった。狙撃手の基本は一射一殺。一発撃てば、それだけで居場所がバレてしまうからだ。魔物相手ならばいざしらず、Ⅸ相手にそれはマズい。故に千里は気配を消し、Ⅸが空気の壁を解く瞬間を、確実に仕留められる瞬間をずっと待っていた。
しかし今、状況は変わった。
先ほど治安維持部隊を援護したのは、橋を守るという理由があったからだ。任務のことだけを考えるのならば、今回は黙って見守るのが正解だろう。だが千里の性格上、二人を見捨てることが出来ない。座視すれば確実に二人は死ぬ。隆臣ひとりならばいざ知らず、お荷物を抱えたまま戦える相手ではないのだ。こうなった以上、撃たないという選択肢は既に無くなっていた。
小夜啼のトリガーに指をかけ、じっと標的を見つめる。
(抜けるかどうかは……五分五分ってところかな?)
瞬間、小夜啼の声が嵐の中を駆け抜けた。
放たれた弾丸は自らのさえずりさえも置き去りにし、Ⅸが纏う不可視の壁へと到達する。弾は空気の壁を突き破り、そして――――。
(……ッ、仕留め損ねた!)
Ⅸの頬を掠め、地面を穿っていた。
千里がこの距離で的を外したのは、迷宮情報調査室に入ってから初めてのことであった。否、外した訳ではない。狙いは完璧だった。しかし威力が、弾速が僅かに足りなかった。故に軌道がズラされ、頬を掠めるに留まってしまったのだ。
スコープの先、治安維持部隊の二人が急ぎ後退してゆく姿が見える。それと同時に、こちらを不機嫌そうに見つめるⅨの姿も。Ⅸが千里の方へと腕を突き出し、ぎゅっと右手を閉じる。まるで何かを握りつぶすかのような、そんな動作であった。
(あ――――)
急ぎスコープから目を離した時、千里の『天眼』に映ったもの。
それはぐちゃぐちゃに歪み、限界まで圧縮された空気の色。千里の目の前で空気が軋み、壊れんばかりの悲鳴を上げていた。