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第81話

 隆臣の拳が唸り、ナインへと迫る。

 技能スキル『浸透』を持つ隆臣の攻撃は、。『浸透』とは、簡単に言えば敵の防御を貫通する類の能力だ。加えて、探索者として鍛え抜かれたその膂力。その性質上、敵に回避を強要する非常に強力な攻撃だった。特に初見の相手には絶大な効果を発揮する、まさに反則級の技能スキルと言えるだろう。そんな一撃必殺の拳が、しかし未だ届かずにいた。


(オイオイオイ、これちょっとヤバいんじゃねぇの?)


 届かないというのは比喩ではない。読んで字の如く、物理的に届いていないのだ。

 回避を強要するどころか、ナインはただ棒立ちで微笑んでいるだけ。だというのに、目に見えない何かに拳が遮られている。まるで真綿を殴るかのように。まるで磁石が反発するかのように。何かに防がれているというよりは、正しく感触。流石の隆臣もこれには焦りを覚えていた。


「意気込みはよかったけど……こうなると退屈だわぁ」


 一方のナインはといえば、隆臣の攻撃を前に小さく欠伸をする始末であった。


(舐めやがって……なら、これならどうだッ)


 直接攻撃が駄目ならと、隆臣は地面に転がっていた小石を拾い、ナインに向かって全力で投擲する。鍛え抜かれた探索者にとって、投擲は立派な武器になる。そこらのプロ野球選手の投球などよりも余程速い、直撃すればダメージ必至の一投だった。しかしそれも、やはりナインには届かない。あとほんの数十センチで直撃というところで、石は見えない何かに跳ね返されていた。


(チッ……やっぱ駄目か。風の防壁ならちゃんと抜く筈なんだがな……)


 もし隆臣の予想通り、ナイン技能スキルが風操作であったなら。軌道をズラされることはあっても、跳ね返すなどといった芸当は不可能な筈なのだ。つまりこの時点で、隆臣の予想は外れていることが確定した。ではこの現象の正体は一体何なのか。隆臣が様々な可能性を思い浮かべた丁度その時、ナインが俄に動いた。


「そろそろ飽きてきたし、こっちからも仕掛けちゃおうかしらぁ?」


「ちッ!」


 まるで柏手でも打つように、ぽん、と両の手を合わせるナイン

 たったそれだけの動作で、隆臣は遥か後方へと激しく吹き飛ばされていた。


「うぉぉぉぉぉ!?」


 タンブルウィードよろしく、街路の上を転がり滑ってゆく隆臣。ダメージはほとんどなかったが、随分と距離を空けられてしまっていた。これは近接タイプの隆臣にとって、よいとは言えない状況であった。そしてこの攻撃によって、より疑念は深くなる。つい先程『風操作』ではないと思った矢先、紛れもなく風による攻撃が行われたのだ。漸く転がり終えた隆臣は、ただ怪訝な顔を浮かべることしか出来なかった。


「うふふふふ! 随分飛んでいったわぁ!」


 楽しそうに笑うナインの声がひどく癇に障る。これでは殆ど遊び、舐めプレイもいいところだ。名実ともにトップクラスの実力者である隆臣が、子供扱いを受けていた。そうしてこめかみをヒクつかせた隆臣が立ち上がるのと同時、通信用のイヤホンから千里せんりの声が聞こえてくる。その報告を受け、隆臣は漸く合点がいったような顔を見せた。


「……成程、『風』じゃなくて『空気』かよ」


「あらぁ? うふふ、バレちゃったわぁ」


 齎されたのは、『天眼』を持つ千里せんりだからこそ見抜けた能力の正体。それは『風操作』ではなく『空気操作』。

 このふたつは似ているようで、実際にはまるで意味合いが異なる。風とは要するに空気の移動だ。つまりナインにとっての『風』とは、ただの副産物に過ぎないということだ。圧縮した空気の壁を纏うことで拳を阻み、音を遮り、雨を弾き、石を跳ね返した。そして空気の密度に差を作ることで光を屈折させ、街中で顔を隠していた。まるで蜃気楼のように。


 謂わば『風操作』の完全上位互換だ。探協に報告されているほぼ全ての技能スキルを把握していた隆臣でさえ、そんな技能スキルは聞いたことがなかった。

 へらへらと笑うナインの様子を見るに、知られたところで微塵も痛くないのだろう。さもありなん。どの程度の範囲まで影響を及ぼせるのかは不明だが、もし本当に空気を自在に操れるというのなら、その汎用性は恐ろしいものになるだろう。


「いや、反則だろそりゃ」


「お褒めに預かり光栄だわぁ」


 冗談めかして文句を言う隆臣だが、しかし内心では酷く焦っていた。

 百戦錬磨の隆臣でさえ、直ちには対策が思いつかなかったのだ。方針が定まらず、顔を顰める隆臣。そんな彼を他所に、ナインはそっと右手を突き出した。


「うふふ、例えばこんな事もできちゃうのよぉ?」


「あぁ?――――ッ!」


 一体何をするつもりかと眉を潜めた隆臣が、突如として喉を押さえながら膝をつく。

 そうして池の鯉のように口を開閉させながら、もがくようにしてナインを睨みつけた。


「ふふふふっ! すごいすごい! 意識があるのは流石だわぁ! あまり長時間維持は出来ないから、これで人を殺すのは難しいんだけど……どぉ? 苦しいでしょぉ?」


「っぐ……カハッ! ハァッ、ハァッ……テメ……っ!」


「あはははははっ!」


 いよいよ我慢出来ないとばかりに、腹を抱えて大笑するナイン。美しいのは見た目だけ、その邪悪な本性がじわりと滲み出してゆく。

 この女は、強い相手と戦うのが好きなクロアとは違うのだ。野心のみで動いていたアールとは違うのだ。この女は、ナインはただ他人で遊びたいだけ。人の苦しむ様を見るのが楽しくて仕方がないのだ。隆臣達は知る由もないことだが、『黒霧ヘイズ』のことすらどうだっていいとナインは考えている。自身の求める快楽の為、そして身を隠すのに都合がいいという、ただそれだけの理由で所属しているに過ぎない。


 今日この場に姿を見せたのも、多くの人間で遊べるからというだけの理由だ。それが強い者であればあるほど、死の淵に立った時、自信が崩れ去った時の絶望と恐怖は大きくなる。もちろん総会になど興味はないし、依頼人の顔や都合も知ったことではない。ナインは他人の悲嘆に塗れた顔が見たいだけなのだ。


「あぁ可笑しい。もっともっと見せて頂戴。憎悪、嫌悪、絶望、恐怖。それが欲しくてこんな遠い島国まで――――あらぁ?」


 一人で勝手に気持ちよくなり始めたナインが、しかし不意に真顔へ戻る。その視線は隆臣の背後――――林の奥へと向けられていた。そこから姿を現したのは、不運な治安維持部隊ガーデンの二人であった。


「先輩、先輩! なんかこっちでスゴイ音しましたよ!?」


「ちょっと待ってくれ。何が起こるか分からないんだから、もう少し慎重に――――ッ!?」


「え? なんです? どうしたんすかせんぱ――――え、何この状況」


 場違いなドレス姿の女に、膝をつく黒スーツの男。

 瞬時に状況を把握し気を引き締める花鶏あとりと、突然の遭遇で呆気にとられる一千華いちか


「な……天久さん!? これは一体……」


「馬鹿野郎ッ! こっち来んな!」


 二人の姿を認めたナインの口角が、ゆっくりと釣り上がった。




       * * *




(これは……ちょっとマズいかな)


 スコープ越しに映る光景に、千里せんりは僅かに歯噛みする。

 戦況は芳しくなかったが、それでも隆臣がそう簡単にやられるとは考えていなかった。狙撃手の基本は一射一殺。一発撃てば、それだけで居場所がバレてしまうからだ。魔物相手ならばいざしらず、ナイン相手にそれはマズい。故に千里せんりは気配を消し、ナインが空気の壁を解く瞬間を、確実に仕留められる瞬間をずっと待っていた。


 しかし今、状況は変わった。

 先ほど治安維持部隊ガーデンを援護したのは、橋を守るという理由があったからだ。任務のことだけを考えるのならば、今回は黙って見守るのが正解だろう。だが千里せんりの性格上、二人を見捨てることが出来ない。座視すれば確実に二人は死ぬ。隆臣ひとりならばいざ知らず、お荷物を抱えたまま戦える相手ではないのだ。こうなった以上、撃たないという選択肢は既に無くなっていた。


 小夜啼のトリガーに指をかけ、じっと標的を見つめる。


(抜けるかどうかは……五分五分ってところかな?)


 瞬間、小夜啼の声が嵐の中を駆け抜けた。

 放たれた弾丸は自らのさえずりさえも置き去りにし、ナインが纏う不可視の壁へと到達する。弾は空気の壁を突き破り、そして――――。


 (……ッ、仕留め損ねた!)


 ナインの頬を掠め、地面を穿っていた。

 千里せんりがこの距離で的を外したのは、迷宮情報調査室に入ってから初めてのことであった。否、外した訳ではない。狙いは完璧だった。しかし威力が、弾速が僅かに足りなかった。故に軌道がズラされ、頬を掠めるに留まってしまったのだ。


 スコープの先、治安維持部隊ガーデンの二人が急ぎ後退してゆく姿が見える。それと同時に、こちらを不機嫌そうに見つめるナインの姿も。ナイン千里せんりの方へと腕を突き出し、ぎゅっと右手を閉じる。まるで何かを握りつぶすかのような、そんな動作であった。


(あ――――)


 急ぎスコープから目を離した時、千里せんりの『天眼』に映ったもの。

 それはぐちゃぐちゃに歪み、限界まで圧縮された空気の色。千里せんりの目の前で空気が軋み、壊れんばかりの悲鳴を上げていた。

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