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第82話

 一人掛けソファの上で腕を組み、脚を組み、じっと正面を見つめる凪。

 少し前から違和感はあった。予兆もあった。事此処に至り、もはや認めざるを得ないだろう。


(……技能スキル、ということよね?)


 目に映るのは灰色の世界。

 まるで世界の時が止まってしまったかのように、微動だにしない織羽おりは花緒里かおり。そしてどう頑張っても動かせない自分の身体。足を組み替えるどころか、指の一本すらまともに動かすことが出来ない。そうだというのに、思考だけがいやにクリアだった。


(不思議ね……時間が止まって――――いえ、私の思考だけが加速している……のかしら? まるで私の脳だけが、世界から切り離されたみたい)


 思えばダンジョン実習に参加したあの日から、考え事に使う時間が減っていた。思索に耽る回数自体は変わらないのに、時間がまるで経過していない。そんな不思議な状況が頻発したのだ。とはいえ時間間隔など曖昧なもので、と気づくのは難しい。楽しい時間は早く過ぎてしまうように、退屈な時間は長く感じられるように。凪は、今の今まで自身の変化に気づくことが出来ずにいたのだ。


 技能スキルとは一般的に、ダンジョンで多くの経験を積むことが発現の条件だと言われている。しかし厳密に言えばこれは誤りだ。否――――誤りと言えば語弊があるか。前述の条件は一般向けにわかりやすく解説しているだけのもので、あくまで『最も多い発現の例』でしかない。


 『ダンジョンに一度でも足を踏み入れたことがある』

 それが正しい技能スキル発現の条件だとされている。何通りもの異なる発現条件があるのか、或いは単に発現は運次第で、長く経験を積めば積むほど抽選回数が増えるということなのか。そのあたりはまだ解明されていないが――――ともかく最低条件に限って言えば、満たすこと自体は非常に容易いのだ。


 凪のような例は極稀だが、しかし報告が皆無というわけではない。

 そういった者達はこれまでにも十年に一度のレベルで発見されている。そうした者たちは『寵愛を受けし者ギフテッド』などと呼ばれており、『寵愛を受けし者ギフテッド』は本人の意思に関係なく、特殊な技能スキルを発現する場合が多いと言われている。


 なお余談だが、日本国内で発見された直近の『寵愛を受けし者ギフテッド』は、『電脳遊泳ネットサーフィン』などというワケの分からない技能スキルを発現している。そんな謎の技能スキルに、本人の深層心理や願いが介在する余地など当然あるはずもなく。まさしく神の贈り物といったところだろう。


 そうして凪が思索から戻れば、再び世界は色を取り戻す。

 花緒里かおりは特に変わったこともなく、次の面通し希望者を招き入れるため淡々と扉に向かっている。織羽おりはは依然として『すんっ』としたままだったが。


(この技能スキルに一体何の意味があるのか……或いは、何もないのかしら。読書にも使えそうだし、個人的には便利で嬉しいけれど……近頃、妙にお腹が空くのはコレの所為なのかしら……一応、織羽おりはに相談してみようかしら?)


 織羽おりはが只者ではないことなど、もはや疑いようもない。ルーカスの言葉を信じるのであれば、このスカしたメイドは相当な実力を持っているのだ。であればこそ、技能スキルくらい所持していても不思議ではない。一方の凪はといえば、まだ技能スキルに目覚めたばかりのヒヨコちゃんに等しい。技能スキル所持者の先達として、何かしらアドバイスでももらえるかもしれない。既にバレている実力を、織羽おりはが無駄に隠そうとしなければの話だが。


(ま、今はどうだっていい事ね。さて、次は誰だったかしら……あぁそうそう、確かすめらぎグループの御曹司だったかしら? ……面倒ね)


 皇グループは国内のダンジョン産業に於いて、九奈白に次ぐ第二位のポジションに就いている。その立場上、皇の人間は九奈白を非常にライバル視している。かの御曹司には、凪も何度か顔を合わせたこともあるが、ハッキリ言って嫌いなタイプであった。凪が『こうはなりたくない』と思うお手本のような存在で、典型的な七光りタイプである。叩き返してもよいのだが、それはそれで子供っぽいというか――――この程度も我慢出来ないようでは、という思いが先に来てしまうのが、九奈白凪という少女であった。


 そんなことを考えつつ、花緒里かおりが扉に手をかけようとするのをぼうっと眺める凪。

 するとこれまで黙って突っ立っていた織羽おりはが、突然花緒里かおりを制止した。


花緒里かおりさん、お待ち下さい」


「どうかしましたか?」


「お嬢様と共に少しお下がりを。私が対処致します」


 俄に立ち込める不穏な気配。

 当の織羽おりはは変わらず無表情だったが、しかしその言葉は剣呑だ。それが何を意味しているか分からないほど、凪も花緒里かおりも鈍くはない。花緒里かおりが努めて冷静に頷き、凪のすぐ前に立つ。凪の座るソファは扉の前に位置していないが、それでも、いざとなれば凪の盾となれるように。


 そうして織羽おりはがゆっくりと扉を開けた、その時だった。

 乾いた破裂音――――銃声が五回。距離は至近、つまりは面通し希望者による発砲だ。当然ながら、扉のすぐ前にいた織羽おりははひとたまりもないだろう。至近距離から撃たれたのだ。良くて重症、最悪の場合は死亡も有りうる。無論、これが普通のメイドであったなら、だが。


 花緒里かおりには、眼の前で何が起こったのか、まるで分からなかった。しかし見たところ、織羽おりはに怪我はない。緊張の面持ちで花緒里かおりが見守る中、織羽おりはが右手を開く。すると床に何かが零れ落ちた。花緒里かおりがよくよく観察してみれば、それは五つの銃弾だった。加えて扉の向こうには、黒服の怪しい男たちが五人、ぴくりともせずに倒れ伏していた。


 状況からして、まず間違いなく凪を狙った襲撃だろう。

 三日目の本会議に凪が出席しないことを考えれば、成程確かに、彼女をどうにかするなら今日が最後のチャンスだ。最初の銃撃で護衛を排除し、凪を人質にし、本会議に対する切り札とする。恐らくはそんなところであろうか。見たところ、襲撃者は『黒霧ヘイズ』の構成員とは思えない。手口も杜撰で、なんというかしょっぱい。


(うーん……『依頼人クライアント』側の独断専行、かな? 『黒霧』が失敗続きな所為で焦ったとか?)


 もし織羽おりはの想像通りなら、そこに転がっている男を尋問することで『依頼人』まで辿り着けるかもしれない。

 これは降って湧いた幸運と言えるだろう。『黒霧』は所詮雇われているだけの存在であり、凪の安全を確かなものにするには、『依頼人』の方を潰す必要があるのだから。それこそが迷宮情報調査室の受けた依頼であり、織羽おりは達の真の目的でもある。


 だが、それは今考えることではない。

 織羽おりはがゆっくりと振り返れば、そこには唖然とする花緒里かおりの姿があった。


「な……今、何が起きたんです?」


「いえ、特には何も」


織羽おりは……これで『何もなかった』は無理がありますよ……」


 時間にすれば一秒にも満たない、刹那の出来事だ。花緒里かおりが現状を理解するには、この光景は少々情報量が多すぎた。

 なにしろ銃声が聞こえたと思った次の瞬間には、既に全てが終わっていたのだから。もしこの場に居たのが花緒里かおりでなかったとしても、やはり結果は同じだっただろう。たとえルーカスだろうと、仮に『六位』の隆臣であろうとも。誰も織羽おりはの世界を知ることは出来ない。誰もへは辿り着けない。今までも、そしてこれからも。


 ――――その筈だった。


「……織羽おりは


「はい? なんでしょうか、お嬢様?」


「あなた今、もしかして時間を止め――――いいえ、違うわね。時間を、と言った方が正しいのかしら?」


「――――えっ」


 九奈白凪が、織羽おりはの世界に追いついた。


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