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第84話

 額から血を流しながら隆臣が叫ぶ。

 恐らくは全力で回避を続けているのだろう。雨で濡れたスーツは、あちこちに芝が付着していた。


「オイ! 『野擦』は無事か!?」


「通信機、発信機、共に応答ありません、ロストです」


「……クソッタレ!」


 極めて冷静なひそかの声に、隆臣は思わず悪態を吐き出す。

 否、別にひそかへ対して吐いた言葉ではない。彼女とて、強靭な意思で以て感情を抑えているだけだ。全体指揮を担当する者として、ひそかの態度は正しい。先の隆臣の悪態は、ただ己の至らなさに腹が立っただけのことだ。


 「ほらほらぁ、もっと頑張りなさぁい? イモムシみたいに転がるだけじゃ、いつまで経ってもわたくしは殺せないわよぉ?」


 「コイツ、いつまで減らず口を……ッ」


 ナインの攻撃は、予兆が無いというわけではない。

 空気を操作するというその性質上、攻撃の前には必ず変化が現れる。空気の僅かな揺らぎ、不自然な風の気配。そうした眼には見えない僅かな気配だけを頼りに、隆臣はどうにか攻撃を凌ぎ続けていた。だが流石の『六位』といえど、それが精一杯だった。


(くそッ……攻撃する暇がねぇ。よしんば攻め込めたとして、あの壁を突破する手段が見つからねぇ。ヘラヘラしやがって、この性悪が)


 実際のところ、隆臣は打開策が見出せずにいた。

 この期に及んで生け捕りなどと、そんな生温い事を言うつもりは微塵もない。今ここでこの女ナインを仕留められるのなら、手段を選ぶつもりすらもなかった。そうだというのに突破口が見つからないのだ。近接戦闘に於いては無類の強さを発揮する隆臣だが、近づけないのではどうしようもない。要するに、隆臣とナインでは相性が悪いのだ。初手でそれが分かったからこそ、自身は気を引く役目を担うつもりであった。しかし決め手として伏せていた札は、既に居ない。


 頑丈さが取り柄の隆臣といえど、いつまでも耐えられるわけではない。どこかで勝負に出る必要があるのだが、そのが見つからない。現状は正しく手詰まりでしかなかった。悔しさと情けなさに、隆臣が下唇を噛む。その時ふと耳元で、何かを伝えるひそかの声が聞こえた。


「うぅーん……『四位』の彼もそうだったけど、『六位』も物足りないわねぇ。どうせ弱いのなら早く死んでくれればいいのに、半端に頑丈で……やぁねぇ?」


「うっせぇ、さっさと殺してみろバーカ。俺がお前みてぇな痴女に負けるかよ」


 そう強がって見せる隆臣の眼前で、景色が揺らいた。

 その直後、みしり、という嫌な音を立てて雨粒が弾け飛ぶ。ナインが空気を圧縮し、握りつぶしたのだ。ナインの性格を現しているかのような、ほとんど相手をいたぶるためだけの攻撃。そんな不可視で恐ろしい攻撃を、隆臣はその場を転がるように回避する。これまでに何度も繰り返した、最早見飽きた攻防だった。


 そう思っていた隆臣だが、しかし今回ばかりは少し違っていた。

 隆臣が転がった先で、小さく空気が爆ぜる。とはいえ、巨躯の隆臣を吹き飛ばすには十分な威力を持った爆発だ。態勢を崩していた隆臣は回避に失敗し、まるでピンボールのように吹き飛ばされてしまった。


「がはッ!」


「ふふふ。これでどうかしらぁ?」


 腹部に異変を感じた隆臣が、痛みに耐えつつ強引に身体を捻る。しかし宙を舞った状態の隆臣は、その攻撃を回避しきることが出来なかった。身体の奥から骨の軋む音が聞こえ、次いで右足へと激しい痛みが襲いかかる。吹き飛ばされた勢いをそのままに、大きな木の幹へと衝突する隆臣。顔を顰めつつ見てみれば、右足首が明後日の方向へとひん曲がっていた。


「ぐおッ……」


「あははは! その足じゃあもう逃げられないわねぇ? 残念だけど、これでゲームオーバーよぉ!」


 木にもたれかかりつつ、前方を睨みつける隆臣。

 邪悪な笑みを浮かべた女が、ゆっくりと近づいていた。


「ほらぁ、命乞いをしてちょうだぁい? もしかしたら助かるかもしれないわよぉ?」


「バーカ、ターコ」


「もぅ……つまんない男だわぁ」


 ナインが小さな溜息をひとつ、わざとらしく零す。

 落胆というよりも、むしろ興味をなくしたという表現のほうが近いだろう。


「つか、何でテメェみたいなのが『黒霧ヘイズ』に居んだよ。人の命令で動くようには見えねぇぞ」


「あら、うふふ。時間稼ぎかしらぁ? それともただの負け惜しみぃ? もうこれ以上の楽しみはなさそうだし、別にいいけどぉ」


 そう忌々しげに呟いた隆臣の言葉に、しかし意外にもナインは答えた。

 すっと目を細め、先程までの間延びした口調さえも忘れたように。


「どうだっていいのよ、そんなこと。『黒霧ヘイズ』も『依頼人クライアント』も、『総会』にだって興味ない。ただわたくしは見たいだけ。人の恐怖と絶望を」


「……いい趣味なこった」


「よく言われるわぁ」


 再びへらへら顔へと戻ったナインが、隆臣へ向けて手を差し向ける。まるでこれが最期の問答だと言わんばかりに。


「言い残すことはもうないかしらぁ?」


「あー……んじゃあ、あと一個だけ」


 絶望的な状況にあって、しかし隆臣は笑っていた。

 それはまるで悪戯が成功した子どものような、酷く楽しそうな顔だった。


「お前、『四位』と『六位』は期待外れだったって言ってたよなぁ……」


「言ったわよぉ。本当につまらなかったわぁ」


「……なら喜べよ。こっから先は――――『一位』が相手だぜ」


「……? どういう意味――――ッ!?」


 ナインが振り向くよりも早く、それは現れた。


「メイドキックでドーン!」


 そんな怪しいセリフと同時、ナインの身体は凄まじい勢いで吹き飛ばされていた。

 先程隆臣が地面を転がっていた時の比ではない。今まで最初からそこには居なかったかのような、殆ど『消えた』と言って差し支えのない速度だった。聞こえてきた木々のへし折れる音から察するに、どうやら林の奥へと飛んでいったらしい。


「間に合ったか……ったく、おせぇんだよお前――――あん?」


 文句を言いつつ、しかしどこか安堵したような顔を見せる隆臣。

 そうして声のした方へと振り向き、直後に怪訝な顔へと変わってゆく。


 そこには頭に紙袋を被った、どこぞの怪しいメイドが立っていた。

 そしてその腕の中には、同じく紙袋を被ったどこぞのご令嬢が『お嬢様抱っこ』状態で抱えられていた。


 突如現れた怪しい紙袋の二人組は、戸惑う隆臣を前にこう宣った。


「コードネーム『紙袋侍女ノーフェイス』、遅ればせながら参上致しました」


「こっ……コードネーム『悪役令嬢あくやくれいじょう』、の、お出ましよ……くッ……最悪だわ……」



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