見えない。まるで動きが見えない。
Ⅸの瞳が動揺に揺れていた。
「ふふふっ、あはははっ! これの――――貴女のどこが普通のメイドだっていうのかしらぁ!?」
長いネイルが虚空を掴み取る。
しかし木々がへし折れるのみで、メイドの姿は見当たらない。今の今までそこに居た筈のエプロンドレスが、いつの間にか視界から消えている。周囲の景色が、揺れる木々が、降りしきる雨粒が。まるでコマ落ちするかのように不自然に飛ぶのだ。その度にⅨは織羽を見失い、死角からの攻撃を受ける。圧縮空気による防壁がなければ、とうの昔に終わっていただろう。
Ⅸをしてそう思わせる程、織羽の動きは異常であった。
それでも彼女が狂気の笑みを浮かべていられるのは、織羽の絶望する姿を見られるかもしれないからだ。
「どこからどう見ても普通のメイドでしょうに。ちなみに趣味は裁縫です、対戦よろしくお願いします」
そんな軽口を言いながら、織羽が箒を振り抜く。背後を突いたにも関わらず、やはり攻撃はⅨまで届かない。
互いにダメージを与えられない展開とはいえ、専ら攻勢に出ているのは織羽の方だ。どちらが優勢かと言えば、やはり織羽に戦況が傾いていると言えるだろう。
しかし実際のところ、織羽にもそれほど余裕があるわけではなかった。
Ⅸの攻撃は不可視かつ、避け損なえば決定打となり得る厄介なものだ。加えて、意識外からの攻撃すら弾いてしまう空気の壁。このふたつの能力を前に、織羽でさえも未だ決めきれずにいる。特に後者の存在が厄介だった。接近戦を主体とする者にとって、Ⅸはこの上なく相性の悪い敵だといえるだろう。あの隆臣が為す術なく敗北したのも頷けるというものだ。
そうして何度か攻撃を試みた結果、織羽が出した結論は――――。
(単純に、火力が足りない)
確かに厄介な防壁だが、攻撃が完全にシャットアウトされているわけではない。織羽が何度か箒で殴りつけたところ、正しく『空気を殴った』かのような手応えと、直後に猛烈な反発が返ってきた。だが、僅かながらもめり込みはしたのだ。つまり件の防壁は、完全無欠の防御ではないということだ。故に織羽は考えた。しかるべき速度と威力を持った攻撃ならば、攻撃は届く筈だ、と。
しかし、ここで問題がひとつ。
織羽は純粋なパワータイプではないのだ。全てが高い水準で纏まっているものの、純粋なパワーに関して言えば、隆臣やクロアの方が上なのだ。ではクロアなら楽に勝てたのかといえば、それも違う。機動力で織羽に劣るクロアでは、Ⅸに肉薄すること自体が難しいだろう。先の隆臣がそうであったように。
もしあの防壁が強風によるものだったならば、突破することは容易だっただろう。
織羽の技能、その本質は『時間の引き伸ばし』『限りなく停止に近い遅延』である。つまりは『死ぬほど強力なスロー効果』であり、厳密には時間を停止させているわけではない。そしてどれだけ時間を引き伸ばそうと、空気の壁は常にそこにあり続ける。Ⅸという女は、織羽が初めて出会った天敵のような存在であった。無論、それはⅨ側にも言えることなのだが。
(腕の一本もくれてやれば、或いは……)
そうして織羽が何かしらの算段をつけたところで、Ⅸが不意に笑って見せた。
それは底冷えのするような、酷く邪悪な笑みだった。
「そう言えば……アナタと一緒に来たもう一人の子。もしかしてアナタの御主人様だったりするのかしらぁ?」
「……」
「護るべき対象をこんなところに連れてきて、一体どういうつもりなのかしらぁ。うふふ、怖い人に襲われなければいいわねぇ?」
眼の前の女が何を言いたいのかなど、先を聞かずとも容易に予想が出来た。
しかし織羽は表情を変えず、ただ静かに告げる。
「お嬢様は私が護ります」
「あらあら、じゃあ例えば……もしあの子が死んでしまったら、アナタは一体どんな顔を見せてくれるのかしら」
「貴女には不可能です。私が居る限り」
「それはどうかしらぁ? 確かにアナタは、わたくしの攻撃を避け続けているけれどぉ……」
瞬間、Ⅸが手にした傘を閉じる。
織羽のいる場所とはまるで異なる方角へ、そのまま傘を一閃。
「例えば、こういうのはどうかしらッ!」
直後、木々が両断される。
それは凪と隆臣が待機している方角だった。
(ッ――――確かに、そりゃそうだっ!)
それは『風操作』ではおなじみの攻撃方法だった。
異質な攻撃ばかりですっかり抜け落ちていたが、Ⅸは『空気』を操っているのだ。風使いに出来る事が、Ⅸに出来ない筈もない。
瞬間、Ⅸの視界から織羽が消える。
にたりと笑うⅨが視線を振れば、そこには箒を盾に防御態勢をとるメイドの姿があった。
「ふッ!!」
織羽が短い気合の声と共に、オリハルコン製の箒を不可視の刃へと振り下ろす。
オリハルコンは加工することすら難しい、謂わば最強の金属だ。どれほど切れ味のよい刃物であろうと、この箒を傷つけることは出来ない。しかしそれを振るう者は違う。優れた身体能力を持つ探索者といえど、所詮は人間。技能によって生み出された攻撃に対して、流石に無傷ではいられない。叩き潰された風が落ち葉と共に宙を舞い、小さな刃となって織羽を襲う。
「くッ……!」
織羽の頬に朱い線が引かれ、傷の端からつうと零れる。
みれば特製のメイド服も切り裂かれ、ところどころ織羽の肌が見え隠れしていた。無論、ダメージ自体は大したことがない。しかし痛みを感じないかと言えば、それほど生易しいものでもなかった。
僅かに顔を歪ませる織羽。
一先ずは防いだと安堵したのも束の間、既に狂気の手は懐へと潜り込んでいた。
織羽の技能『永遠の一瞬』は、強力過ぎるが故か、短時間での連続使用が出来ないという弱点がある。時間にすればほんの数秒だが、しかし一呼吸置かなければ再使用が出来ない。そうした特性を見抜いたわけでもないだろうが、Ⅸはその狡猾な嗅覚で、見事に織羽の隙を突いていた。これまでとは違って直接触りに来たのは、怪しい技能での回避を許さない為だろう。ゼロ距離で捕まえてしまえば、発動の遅さなど関係がない。
自らの胸ぐらへと伸びる手を、織羽がじっと見つめる。この時織羽が考えていたのは、どう攻撃を捌くかなどといった内容ではなかった。
織羽の脳裏を過ったのはその先の事。もしここで大怪我をすれば、凪の元へ戻ったときにどうなるだろうか。
――――ごめんなさい、私のせいで。
あの少女は、そう言う気がした。
努めて平静を装いながら、しかし震える唇で。かつて織羽が目にした、妹の最期と同じような顔で。
(……そんなこと、二度とッ!)
織羽が強引に身体を捻る。
体中の骨と筋肉が軋み悲鳴を上げるも、しかし歯を食いしばって全てを黙らせる。
「ぐうッ……くっ、ふんぬっ!」
そうしてそのまま、Ⅸの伸ばした腕を思い切り膝で蹴り上げた。無理な姿勢だったが故に、威力そのものは大したことがない。ダメージは疎か、相手の態勢を崩すことすら出来ていない。だが絶対に回避出来ない筈の攻撃を回避されたことで、Ⅸの瞳が動揺に揺れた。それはこの日、Ⅸが初めて見せる表情であった。
「なッ……これを避け――――!?」
この瞬間、Ⅸは自身の失敗を悟った。
普段であれば絶対に行うことのない、Ⅸの直接的な攻撃。得体の知れない技能を警戒するが故の、万全を期した筈の攻撃だった。それが回避された今、一転して危機が訪れる。彼女は織羽に触れるため、一時的に防壁を解除していたのだ。
とはいえ、いつまでも呆けているようなⅨではない。
驚愕したのはほんの数瞬、コンマ一秒ほどの事。瞬時に距離をとり、再び防壁を展開するために技能を発動する。しかしⅨの技能にもまた、強力であるが故の弱点が存在した。それは、発動までに僅かな時間が必要だというもの。
敵との距離が適切に保たれていれば、なんの問題にもならない程度の隙。
そんなごく僅かな隙を許してくれない相手が今、眼の前に居た。
「しまっ……」
「灰は灰に――――ッ」
密度の異なる空気の膜へと、使い込まれた箒の柄が突き刺さる。
集まり始めていた空気が瞬時に霧散し、Ⅸの身体が無防備なままに曝け出されていた。
「ゴミは――――」
箒がくるりと回転し、穂先が横薙ぎに迫る。
「ゴミ箱へどうぞぉぉぉぉ!」
全力で振るわれたオリハルコン製の箒が、Ⅸの脇腹を捉えていた。