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第86話

 見えない。まるで動きが見えない。

 ナインの瞳が動揺に揺れていた。


 「ふふふっ、あはははっ! これの――――貴女のどこが普通のメイドだっていうのかしらぁ!?」


 長いネイルが虚空を掴み取る。

 しかし木々がへし折れるのみで、メイドの姿は見当たらない。今の今までそこに居た筈のエプロンドレスが、いつの間にか視界から消えている。周囲の景色が、揺れる木々が、降りしきる雨粒が。まるでコマ落ちするかのように不自然にのだ。その度にナイン織羽おりはを見失い、死角からの攻撃を受ける。圧縮空気による防壁がなければ、とうの昔に終わっていただろう。


 ナインをしてそう思わせる程、織羽おりはの動きは異常であった。

 それでも彼女が狂気の笑みを浮かべていられるのは、織羽おりはの絶望する姿を見られるかもしれないからだ。


「どこからどう見ても普通のメイドでしょうに。ちなみに趣味は裁縫です、対戦よろしくお願いします」


 そんな軽口を言いながら、織羽おりはが箒を振り抜く。背後を突いたにも関わらず、やはり攻撃はナインまで届かない。

 互いにダメージを与えられない展開とはいえ、専ら攻勢に出ているのは織羽おりはの方だ。どちらが優勢かと言えば、やはり織羽おりはに戦況が傾いていると言えるだろう。


 しかし実際のところ、織羽おりはにもそれほど余裕があるわけではなかった。

 ナインの攻撃は不可視かつ、避け損なえば決定打となり得る厄介なものだ。加えて、意識外からの攻撃すら弾いてしまう空気の壁。このふたつの能力を前に、織羽おりはでさえも未だ決めきれずにいる。特に後者の存在が厄介だった。接近戦を主体とする者にとって、ナインはこの上なく相性の悪い敵だといえるだろう。あの隆臣が為す術なく敗北したのも頷けるというものだ。


 そうして何度か攻撃を試みた結果、織羽おりはが出した結論は――――。


(単純に、火力が足りない)


 確かに厄介な防壁だが、攻撃が完全にシャットアウトされているわけではない。織羽おりはが何度か箒で殴りつけたところ、正しく『空気を殴った』かのような手応えと、直後に猛烈な反発が返ってきた。だが、僅かながらもめり込みはしたのだ。つまり件の防壁は、完全無欠の防御ではないということだ。故に織羽おりはは考えた。しかるべき速度と威力を持った攻撃ならば、攻撃は届く筈だ、と。


 しかし、ここで問題がひとつ。

 織羽おりはは純粋なパワータイプではないのだ。全てが高い水準で纏まっているものの、純粋なパワーに関して言えば、隆臣やクロアの方が上なのだ。ではクロアなら楽に勝てたのかといえば、それも違う。機動力で織羽おりはに劣るクロアでは、ナインに肉薄すること自体が難しいだろう。先の隆臣がそうであったように。


 もしあの防壁が強風によるものだったならば、突破することは容易だっただろう。

 織羽おりは技能スキル、その本質は『時間の引き伸ばし』『限りなく停止に近い遅延』である。つまりは『死ぬほど強力なスロー効果』であり、厳密には時間を停止させているわけではない。そしてどれだけ時間を引き伸ばそうと、空気の壁は常にそこにあり続ける。ナインという女は、織羽おりはが初めて出会った天敵のような存在であった。無論、それはナイン側にも言えることなのだが。


(腕の一本もくれてやれば、或いは……)


 そうして織羽おりはが何かしらの算段をつけたところで、ナインが不意に笑って見せた。

 それは底冷えのするような、酷く邪悪な笑みだった。


「そう言えば……アナタと一緒に来たもう一人の子。もしかしてアナタの御主人様だったりするのかしらぁ?」


「……」


「護るべき対象をこんなところに連れてきて、一体どういうつもりなのかしらぁ。うふふ、怖い人に襲われなければいいわねぇ?」


 眼の前の女が何を言いたいのかなど、先を聞かずとも容易に予想が出来た。

 しかし織羽おりはは表情を変えず、ただ静かに告げる。


「お嬢様は私が護ります」


「あらあら、じゃあ例えば……もしあの子が死んでしまったら、アナタは一体どんな顔を見せてくれるのかしら」


「貴女には不可能です。私が居る限り」


「それはどうかしらぁ? 確かにアナタは、わたくしの攻撃を避け続けているけれどぉ……」


 瞬間、ナインが手にした傘を閉じる。

 織羽おりはのいる場所とはまるで異なる方角へ、そのまま傘を一閃。


「例えば、こういうのはどうかしらッ!」


 直後、木々が両断される。

 それは凪と隆臣が待機している方角だった。


(ッ――――確かに、そりゃそうだっ!)


 それは『風操作』ではおなじみの攻撃方法だった。

 異質な攻撃ばかりですっかり抜け落ちていたが、ナインは『空気』を操っているのだ。風使いに出来る事が、ナインに出来ない筈もない。


 瞬間、ナインの視界から織羽おりはが消える。

 にたりと笑うナインが視線を振れば、そこには箒を盾に防御態勢をとるメイドの姿があった。


「ふッ!!」


 織羽おりはが短い気合の声と共に、オリハルコン製の箒を不可視の刃へと振り下ろす。

 オリハルコンは加工することすら難しい、謂わば最強の金属だ。どれほど切れ味のよい刃物であろうと、この箒を傷つけることは出来ない。しかしそれを振るう者は違う。優れた身体能力を持つ探索者といえど、所詮は人間。技能スキルによって生み出された攻撃に対して、流石に無傷ではいられない。叩き潰された風が落ち葉と共に宙を舞い、小さな刃となって織羽おりはを襲う。


「くッ……!」


 織羽おりはの頬に朱い線が引かれ、傷の端からと零れる。

 みれば特製のメイド服も切り裂かれ、ところどころ織羽おりはの肌が見え隠れしていた。無論、ダメージ自体は大したことがない。しかし痛みを感じないかと言えば、それほど生易しいものでもなかった。


 僅かに顔を歪ませる織羽おりは

 一先ずは防いだと安堵したのも束の間、既に狂気の手は懐へと潜り込んでいた。


 織羽おりは技能スキル『永遠の一瞬』は、強力過ぎるが故か、短時間での連続使用が出来ないという弱点がある。時間にすればほんの数秒だが、しかし一呼吸置かなければ再使用が出来ない。そうした特性を見抜いたわけでもないだろうが、ナインはその狡猾な嗅覚で、見事に織羽おりはの隙を突いていた。これまでとは違って直接触りに来たのは、技能スキルでの回避を許さない為だろう。ゼロ距離で捕まえてしまえば、発動の遅さなど関係がない。


 自らの胸ぐらへと伸びる手を、織羽おりはがじっと見つめる。この時織羽おりはが考えていたのは、どう攻撃を捌くかなどといった内容ではなかった。

 織羽おりはの脳裏を過ったのはその先の事。もしここで大怪我をすれば、凪の元へ戻ったときにどうなるだろうか。


 ――――ごめんなさい、私のせいで。


 あの少女は、そう言う気がした。

 努めて平静を装いながら、しかし震える唇で。かつて織羽おりはが目にした、妹の最期と同じような顔で。


(……そんなこと、二度とッ!)


 織羽おりはが強引に身体を捻る。

 体中の骨と筋肉が軋み悲鳴を上げるも、しかし歯を食いしばって全てを黙らせる。


「ぐうッ……くっ、ふんぬっ!」


 そうしてそのまま、ナインの伸ばした腕を思い切り膝で蹴り上げた。無理な姿勢だったが故に、威力そのものは大したことがない。ダメージは疎か、相手の態勢を崩すことすら出来ていない。だが絶対に回避出来ない筈の攻撃を回避されたことで、ナインの瞳が動揺に揺れた。それはこの日、ナインが初めて見せる表情であった。


「なッ……これを避け――――!?」


 この瞬間、ナインは自身の失敗を悟った。

 普段であれば絶対に行うことのない、ナインの直接的な攻撃。得体の知れない技能スキルを警戒するが故の、万全を期した筈の攻撃だった。それが回避された今、一転して危機が訪れる。彼女は織羽おりはに触れるため、一時的に防壁を解除していたのだ。


 とはいえ、いつまでも呆けているようなナインではない。

 驚愕したのはほんの数瞬、コンマ一秒ほどの事。瞬時に距離をとり、再び防壁を展開するために技能スキルを発動する。しかしナイン技能スキルにもまた、強力であるが故の弱点が存在した。それは、発動までに僅かな時間が必要だというもの。


 敵との距離が適切に保たれていれば、なんの問題にもならない程度の隙。

 そんなごく僅かな隙を許してくれない相手が今、眼の前に居た。


「しまっ……」


「灰は灰に――――ッ」


 密度の異なる空気の膜へと、使い込まれた箒の柄が突き刺さる。

 集まり始めていた空気が瞬時に霧散し、ナインの身体が無防備なままに曝け出されていた。


「ゴミは――――」


 箒がくるりと回転し、穂先が横薙ぎに迫る。


「ゴミ箱へどうぞぉぉぉぉ!」


 全力で振るわれたオリハルコン製の箒が、ナインの脇腹を捉えていた。

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