少しずつ弱くなってきた雨脚。
細かな水滴が凪の頬を濡らす。
「本当は――――ずっと悩んでいます」
「おん?」
その言葉通り、凪の瞳は複雑な感情に揺れていた。
「本当にあの子を頼ってしまってよかったのか、と」
腕を組んだままの態勢で、自らの服をぎゅっと握りしめる凪。
隆臣は何も言わず、凪の方へ視線を送ることすらなく。ただじっと、言葉の続きを待っている。
「私が思う何倍も、あの子が強いということはもう理解っている。けれどそれは、主が従者を死地へと送っていい理由にはならない。そんなことは分かっていた筈なのに、結局あの子を頼ってしまった。私が最も忌み嫌っていた筈の、立場を利用した卑怯な行為だわ」
「……」
「あの子に対して、これまでの私はお世辞にも良いとは言えない態度をとってきた。なのに私のわがままで、あの子を危険な場所へと送り込んでしまった。もしあの子が怪我をして帰ってきたら――――或いは、帰ってこなかったら。そう思うと、震えが止まらなくて」
会社の方針を決めるだとか、部下に指示を出すだとか、そういったことは酷く簡単な事なのに。要するに九奈白凪という少女は、人を頼ることが絶望的に下手なのだ。
常に冷静で、いかなる時も毅然とした態度を崩さない、才色兼備のお嬢様。
それが周囲の抱く、九奈白凪という少女のイメージだろう。だが今、凪の心はみっともなく揺れていた。
この場には凪と隆臣の二人しか居ない。
だが凪は、別に相談がしたかったわけではない。悩みを打ち明けたかった訳では無い。ただ自然と、秘めた不安が外に溢れてしまったのだ。どれだけ大人びていたとしても、所詮は十六になったばかりの少女に過ぎない。自身が『内側』へと入れた人間を戦場に送り込み、その上で平然としていられるほど、彼女はまだ強くなかった。
そんな独白じみた言葉を聞き、隆臣は
「後悔してんのか? アイツを頼ったのは間違った選択だった、と?」
「そう……かもしれません」
「だが、人の上に立つってのはそういうことだぜ。他人を頼らなきゃならねぇ時は必ず来る。嬢ちゃんが嵐士の後を継ぐってんなら尚更、この先は後悔の連続だろうぜ」
九奈白家はダンジョン産業で大きくなった家だ。素材の収集依頼など、他人を危険な地域へ送る時は必ず来る。
そしてそれは、隆臣にも同じことが言える。むしろ隆臣の方こそ、直接的に『死んでこい』と命令する立場にある。それは人の上に立つ以上、避けては通れない道なのだ。組織の大小に関わらず、組織の形態に関わらず。誰かに泣いてくれと命じる時は絶対に来るのだ。
事実、隆臣が今の仕事をしているのも、これに近しい理由からだ。
彼もまた
「けどまぁ、安心していいぜ。嬢ちゃんの選択は間違っちゃいねぇ」
「……どうしてそんなことが言えるんですか」
「嬢ちゃんが頼った相手は、この世で一番頼りがいがあるヤツだからだ」
普段の隆臣は、どこか親のような目線で
しかしこの時は違った。まるで頼れる戦友に背中を預けているかのような、実に誇らげな顔であった。
「それに……何があったのかは知らねぇが、
そう言って、隆臣がにやりと笑う。
「ただ信じて待ってりゃいいんだよ。それが嬢ちゃんの、嬢ちゃんにしか出来ねぇ仕事だ」
凪が何かを噛みしめるように、そっと瞳を閉じる。
隆臣が伝えた言葉の、その全てを受け入れられた訳では無い。まして、自身の選択を信じられた訳でも無い。だがそれでも、不思議と心は落ち着いていた。
「……そうね。ええ、そうするわ」
そうして凪が前を向いた、次の瞬間だった。
林の中から突然、凄まじい速度で何かが飛び出してきた。凪の眼ではハッキリと追えなかったが、黒いボロ布で包まれた何か――――それこそ生ゴミの袋のような、そんな陰に見えた。謎の陰は芝の上を弾むように転がり、かと思えば空高くに舞い上がる。見上げた凪達の上空で、ゴミ袋が羽を――――否、傘を開く。
凪がゴミ袋と勘違いしたそれは、紛れもなく
そんな
白と黒、二色で編まれたエプロンドレス。ヴィクトリアンともフレンチとも取れるような、オリジナル様式のメイド服。風のように颯爽と現れたそれが、いつの間にか凪の眼前に立っていた。
「
凪が大きな声を上げる。
「余裕です。いえい」
およそメイドのとる態度ではなかったが、それはいつものことだ。
変わらぬ
凪を背中に庇いつつ、
ふわりと宙を舞う
「ぐうッ……ハァッ、ハァ……うふふ、こんなに痛いのも、こんなに追い込まれたのも、どちらも初めての経験だわぁ」
「では楽にして差し上げますので、さっさと降りて下さい」
「ふふ……お断りよぉ。わたくし、他人を虐めるのは好きよ? でも、虐められるのは嫌いなの。だから今日はもうおしまぁい」
ふわふわと、徐々に高度を上げてゆく
「まさかこんなところで『一位』に会えるだなんて……それだけで、こんなところまで来た甲斐があったというものだわぁ」
「……」
「貴女の顔が恐怖と絶望に歪む、それを想像しただけで……ふふ、堪らないわぁ。次に会うときは必ず殺してあげるわ。その時はそっちのお嬢ちゃんも一緒に、ね?」
世界中から追われる凶悪犯であり、『四位』を暗殺した張本人。そんな邪悪な女が今、弱りきった姿で逃走を図っていた。明るみに出ていないものも含めれば、この女の手に掛かった犠牲者は数知れないだろう。今ここでこの女を逃がせば、また多くの者が犠牲になるだろう。なんとしても、ここで仕留めなければならない相手なのだ。だというのに、手が届かない。
「それじゃあ、いつかまた会いましょうねぇ」
ゆっくりと、確実にこの場を離脱してゆく
千載一遇の好機を前にして、最後の最後で逃げられてしまう。どうしようもない現実を前に、隆臣が拳を強く握りしめる。
しかし
そんな『いつか』が来ることは永遠に無いと、彼は既に知っていたから。
「馬鹿みたいにふわふわ飛んで……ご存じないのでしょうか?」
瞬間、
雨を切り裂き響き渡る、
「