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第87話

 少しずつ弱くなってきた雨脚。

 細かな水滴が凪の頬を濡らす。


「本当は――――ずっと悩んでいます」


「おん?」


 織羽おりはナインが消えていった林の方を眺めつつ、ぽつりと凪が零した。

 その言葉通り、凪の瞳は複雑な感情に揺れていた。


「本当にあの子を頼ってしまってよかったのか、と」


 腕を組んだままの態勢で、自らの服をぎゅっと握りしめる凪。

 隆臣は何も言わず、凪の方へ視線を送ることすらなく。ただじっと、言葉の続きを待っている。


「私が思う何倍も、あの子が強いということはもう理解っている。けれどそれは、主が従者を死地へと送っていい理由にはならない。そんなことは分かっていた筈なのに、結局あの子を頼ってしまった。私が最も忌み嫌っていた筈の、立場を利用した卑怯な行為だわ」


「……」


「あの子に対して、これまでの私はお世辞にも良いとは言えない態度をとってきた。なのに私のわがままで、あの子を危険な場所へと送り込んでしまった。もしあの子が怪我をして帰ってきたら――――或いは、帰ってこなかったら。そう思うと、震えが止まらなくて」


 織羽おりはを信じると決めた。なのに今度は、自分の選択に自信が持てない。過去のトラウマで前が見えない。

 会社の方針を決めるだとか、部下に指示を出すだとか、そういったことは酷く簡単な事なのに。要するに九奈白凪という少女は、人を頼ることが絶望的に下手なのだ。


 常に冷静で、いかなる時も毅然とした態度を崩さない、才色兼備のお嬢様。

 それが周囲の抱く、九奈白凪という少女のイメージだろう。だが今、凪の心はみっともなく揺れていた。


 この場には凪と隆臣の二人しか居ない。

 だが凪は、別に相談がしたかったわけではない。悩みを打ち明けたかった訳では無い。ただ自然と、秘めた不安が外に溢れてしまったのだ。どれだけ大人びていたとしても、所詮は十六になったばかりの少女に過ぎない。自身が『内側』へと入れた人間を戦場に送り込み、その上で平然としていられるほど、彼女はまだ強くなかった。


 そんな独白じみた言葉を聞き、隆臣は回復薬ポーションの瓶を口に咥えたまま、むっつりとした顔で頭を掻いた。


「後悔してんのか? アイツを頼ったのは間違った選択だった、と?」


「そう……かもしれません」


「だが、人の上に立つってのはそういうことだぜ。他人を頼らなきゃならねぇ時は必ず来る。嬢ちゃんが嵐士の後を継ぐってんなら尚更、この先は後悔の連続だろうぜ」


 九奈白家はダンジョン産業で大きくなった家だ。素材の収集依頼など、他人を危険な地域へ送る時は必ず来る。

 そしてそれは、隆臣にも同じことが言える。むしろ隆臣の方こそ、直接的に『死んでこい』と命令する立場にある。それは人の上に立つ以上、避けては通れない道なのだ。組織の大小に関わらず、組織の形態に関わらず。誰かに泣いてくれと命じる時は絶対に来るのだ。


 事実、隆臣が今の仕事をしているのも、これに近しい理由からだ。

 彼もまた織羽おりはと同じ、救えなかった誰かの為にここにいる。世の中には、自分だけではどうしようもない局面がある。選択を間違える事は必ずある。それを誰よりも知っている隆臣だからこそ、言えることがあった。故に、自分が説教や相談に向いていないことを重々承知の上で、隆臣は言葉を続ける。


「けどまぁ、安心していいぜ。嬢ちゃんの選択は間違っちゃいねぇ」


「……どうしてそんなことが言えるんですか」


「嬢ちゃんが頼った相手は、この世で一番頼りがいがあるヤツだからだ」


 普段の隆臣は、どこか親のような目線で織羽おりはを見ている。

 しかしこの時は違った。まるで頼れる戦友に背中を預けているかのような、実に誇らげな顔であった。


「それに……何があったのかは知らねぇが、が変わってやがった。ありゃあ『やるべき事を見つけた』ヤツの瞳だ。つまりアイツはアイツの意思で、嬢ちゃんの願いに答えると決めたってことさ。だから――――」


 そう言って、隆臣がにやりと笑う。


「ただ信じて待ってりゃいいんだよ。それが嬢ちゃんの、嬢ちゃんにしか出来ねぇ仕事だ」


 凪が何かを噛みしめるように、そっと瞳を閉じる。

 隆臣が伝えた言葉の、その全てを受け入れられた訳では無い。まして、自身の選択を信じられた訳でも無い。だがそれでも、不思議と心は落ち着いていた。


 「……そうね。ええ、そうするわ」


 そうして凪が前を向いた、次の瞬間だった。

 林の中から突然、凄まじい速度で何かが飛び出してきた。凪の眼ではハッキリと追えなかったが、黒いボロ布で包まれた何か――――それこそ生ゴミの袋のような、そんな陰に見えた。謎の陰は芝の上を弾むように転がり、かと思えば空高くに舞い上がる。見上げた凪達の上空で、ゴミ袋が羽を――――否、傘を開く。


 凪がゴミ袋と勘違いしたそれは、紛れもなくナインであった。まるで海月くらげのように上空を漂うナインは、有り体に言って満身創痍であった。左手で脇腹を抑え、痛みを耐えるように顔を苦悶で歪ませるナイン。苦悶を浮かべつつも、しかし口元にだけは未だ笑みを浮かべているあたりは、流石の狂人といったところか。美しい漆黒のドレスは見る陰もなく、いたるところに穴や破れ、ほつれが見える。隙間から覗いた肌は、多量の血を滲ませている。意外や意外、ナインの血はちゃんと赤かった。


 そんなナインを追うように、林から飛び出す陰がもうひとつ。

 白と黒、二色で編まれたエプロンドレス。ヴィクトリアンともフレンチとも取れるような、オリジナル様式のメイド服。風のように颯爽と現れたそれが、いつの間にか凪の眼前に立っていた。


織羽おりはッ!」


 凪が大きな声を上げる。織羽おりはのメイド服もまた、ナイン程ではないが損傷が目立っていた。しかし織羽おりははけろりとした顔のまま、いつも通りの飄々とした態度で、凪に向かってぐっとサムズアップをしてみせた。


「余裕です。いえい」


 およそメイドのとる態度ではなかったが、それはいつものことだ。

 変わらぬ織羽おりはの様子から、ひとまず安堵の表情を見せる凪。何事かを喚いているゴリラが隣に居たような気もするが、負けゴリラの言うことなど華麗にスルー。


 凪を背中に庇いつつ、織羽おりはが上空を睨みつける。

 ふわりと宙を舞うナインだが、既に安定した浮遊すら出来なくなっていた。あれほどの威力と持続力を持つ技能スキルだ。繊細な制御を要求されるであろうことは、容易に想像がつく。織羽おりはの渾身の一撃をまともに受け、今はギリギリ制御を保っている状態なのだろう。


「ぐうッ……ハァッ、ハァ……うふふ、こんなに痛いのも、こんなに追い込まれたのも、どちらも初めての経験だわぁ」


「では楽にして差し上げますので、さっさと降りて下さい」


「ふふ……お断りよぉ。わたくし、他人を虐めるのは好きよ? でも、虐められるのは嫌いなの。だから今日はもうおしまぁい」


 ふわふわと、徐々に高度を上げてゆくナイン。だがその速度は非常に遅い。すぐにこの場を離脱出来ないほど、織羽おりはの一撃はナインを追い詰めていた。あれほど厄介だった防壁も、弱りきった今ならば簡単に貫くことが出来るだろう。しかしそれでも、ナインは余裕の表情を崩さない。痛みに耐えながら、それでも笑みを浮かべ続けている。織羽おりはと隆臣、この場にいる二人の強者が、共に近接戦闘型だということはどうやら見抜かれているらしい。


「まさかこんなところで『一位』に会えるだなんて……それだけで、こんなところまで来た甲斐があったというものだわぁ」


「……」


「貴女の顔が恐怖と絶望に歪む、それを想像しただけで……ふふ、堪らないわぁ。次に会うときは必ず殺してあげるわ。その時はそっちのお嬢ちゃんも一緒に、ね?」


 世界中から追われる凶悪犯であり、『四位』を暗殺した張本人。そんな邪悪な女が今、弱りきった姿で逃走を図っていた。明るみに出ていないものも含めれば、この女の手に掛かった犠牲者は数知れないだろう。今ここでこの女を逃がせば、また多くの者が犠牲になるだろう。なんとしても、ここで仕留めなければならない相手なのだ。だというのに、手が届かない。


「それじゃあ、いつかまた会いましょうねぇ」


 ゆっくりと、確実にこの場を離脱してゆくナイン

 千載一遇の好機を前にして、最後の最後で逃げられてしまう。どうしようもない現実を前に、隆臣が拳を強く握りしめる。


 しかし織羽おりはは微塵も焦ってはいなかった。

 そんな『いつか』が来ることは永遠に無いと、彼は既に知っていたから。


「馬鹿みたいにふわふわ飛んで……ご存じないのでしょうか?」


 瞬間、ナインの脇腹に穴が空いた。

 雨を切り裂き響き渡る、小夜啼鳥ナイチンゲールの鳴き声と共に。


は彼女の領空テリトリーですよ」



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