隆臣が撤収準備を始めた頃。
「おいすぅ」
満身創痍の
小柄なクロアが高身長の千里を運ぶには、担いで引きずるしかなかった。クロアの
「せめて逆だろ……」
流石の隆臣もこれにはドン引きである。
そんな隆臣には一切の反応を見せず、ただきょろきょろと周囲を見回すクロア。
「……あれ? メイドちゃん居なくなぁい?」
「アイツなら御主人様を抱えて、さっさと戻っていったぞ」
そう言う隆臣が指差すのは島の中央。
展望台の崩落で騒ぎになっているであろう、会場のある方角だ。
「えぇー? 折角メイドちゃんの戦いが見られると思ったのにぃ……じゃあ、あのイカれ女はぁ?」
「自己紹介か? ……まて、冗談だ」
じろりと睨むクロアの圧に、隆臣が若干気圧される。
イカれ女の自覚があるクロアだが、どうやら
「
隆臣が立てた指をくるりと回し、今度はすぐ側の海へと向ける。
海は先程までの風雨により、荒れに荒れていた。水温も随分と下がっていることだろう。島内は随分とマシになってきたが、海上の霧は依然深く広がっている。弱った状態でこんな荒れた海に、しかも高所から落ちたとなれば、如何に探索者といえどまず助からない。おまけに
クロアが海の方へと身体を向けたことで、
「アイタタタぁー! え、何!? 敵襲!?」
「あ、やっと起きたぁ」
「おう、おつかれさん。ふたりとも無事でなによりだ」
「あー、うん。なんかめちゃくちゃ頭痛いけど……ま、なんとか無事だよ。クロアちゃんが下に居なかったらヤバかったかな」
そう、
クロアが戦った場所は地下の避難通路。その出口は展望台の下へと繋がっている。アールに対処した後、会場へと戻ったクロアは、丁度
そうして今いるこの場所へと向かう途中、二人は撤退中の
朦朧とする意識の中にあって、しかし
「いやー、やっぱコイツを引き込んだのは正解だったな! ガハハ! 流石は俺の慧眼!」
「っていうか室長、
「ほら、使え。下級だが応急処置にはなるだろ」
隆臣が回復薬の瓶を放り投げ、
なにはともあれ、迷宮情報調査室のメンバーは全員無事だった。会場に集まった総会参加者達も、誰一人怪我をしていない。多少の騒ぎにはなってしまったが、そちらは九奈白凪が対処するだろう。九奈白市の観光名所がひとつ崩壊してしまったが、テロを防いだ対価と考えれば安いものだ。
「なべて世は事もなし、ってな。よーし、んじゃあさっさと撤収すんぞー」
こうして、迷宮情報調査室の面々は人知れず島を去った。
* * *
凪を抱えながら、
多少は切り傷もあった
そうして会場へと戻る最中、
「お嬢様――――ありがとうございます」
「……急に何? お礼を言うのは私の方だと思うけれど」
「いえ。ただ言っておきたくて」
「なによそれ」
唐突に告げられた謝辞に、凪が胡乱げな表情を見せる。
一体何を指しての『ありがとう』なのか、彼女にはまるで見当がつかなかった。
「……私は、多分死んでいたんだと思います。生きているという嘘を吐きながら、ただその場を彷徨うだけの屍。それが私でした」
「……」
断片的かつ抽象的な言葉。
それの意味するところなど、流石の凪にも分からない。だがそれでも、決して冗談で言っているわけではない、ということだけは分かった。
――――ボクからもひとつ質問、いいかな?
それは、
来栖織羽という人間の全てを、酷く端的に言い表した言葉。
――――キミは、
あの時、
あの時、自分の心が既に壊れていることを初めて自覚した。
誰かを助けたい、護りたい。妹との約束は未だこの胸にある。
しかしその一方で、それらを否定する自分が心の何処かに居た。何の意味も無い行為だと、ただの自己満足に過ぎないと。
誰かを救う度、自分は『幸せ』とやらに近づいているのだと思っていた。だがそうではなかった。信念に基づいて人助けをしていたつもりだったのに、実際にはただの贖罪行為と成り果てていた。かつて抱いていた『誰かを救いたい』という信念は、妹の死と共にすり替わっていた。
「もしかしたら、今もまだそうなのかもしれません。でも……それでも」
だが、不安そうな瞳で助力を乞う凪の姿に、最も救いたかった存在が重なった。
その瞬間、かつて抱いていた信念が再び鼓動を始めていた。
「……もう一度だけ。そう思ったんです」
それはいつかの凪の言葉。
少女は、他人を。
少年は、自分を。
互いが互いのおかげで、そう思えるようになっていた。
「今のはそのお礼です。我ながら抽象的な話だとは思いますが……まぁ、決意表明みたいなものだと思って頂ければ」
そう言って自嘲気味な笑顔を浮かべる
崩落した展望台が、もう目と鼻の先まで近づいていた。そうして
「ならやっぱり……私の方こそ、ありがとう」
いつの間にか、雨は上がっていた。