数ヶ月前、
それは九奈白家にとっての敵対勢力が排除されるまでの間、凪を危険から護ること。
ここで言う敵対勢力とは『
勿論、九奈白の娘というだけで、そこらの子女よりは余程狙われやすい立場にいる。しかし『黒霧』程の巨悪に狙われることは、殆ど無くなったと言っていいだろう。市内には
要するに
所詮はただの護衛と
本来であれば、任務が終わった以上は黙って撤収するだけだ。
その後の報告など、紙切れを一枚送付すればそれで済む。事実、これまでの護衛依頼で
そんな
それは――――。
「お嬢様、これを覚えていますか?」
それはダンジョン実習の際にも見せた、六桁順位の探索者証であった。
「それは、貴女の……」
「そうですね、私の探索者証です。まぁ偽造なんですけど」
「なんですって? 貴女、さっきから一体何を言って――――」
「私の本当の探索者証は、こっちなんです」
そう言って今度は、別のカードを懐から取り出す
「……何よそれ。それが探索者証ですって? そんなの見たことないわよ?」
「正真正銘、本物ですよ。ほら、ここに協会の認可印があるでしょう?」
手渡されたカードを、眉を顰めながらじっと見つめる凪。
凪は立場上、探索者証を目にする機会が多い。探索者向けの装備を購入する際には、探索者証の提出が義務付けられているからだ。
そんな凪が見たところ、成程確かに探協が発行したもので間違いない。しかしこのカードには、どこを探しても順位が表記されていなかった。
「順位は裏面ですよ」
探索者証のデザインに差異があることは、一般には知られていない。なにしろ、デザインが異なるのは一桁が所持するカードのみ。たとえ探協職員であろうとも、そうそう目にする機会はない代物だ。凪が知らないのも無理はないだろう。
「探索者証って、実は一桁のものだけデザインが違うんです。流石のお嬢様も見たことなかったみたいですね」
「は……? 貴女まさか……」
「はい。私、実は
「なっ――――!?」
驚きに再び目を見開く凪。
しかし一方の
「ところでお嬢様。何か気づきませんでしたか?」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! まだ理解が追いついていないのよ! これ以上何を……」
この時、凪は気づかなかった。
平静を装う
それは凪への感謝と、そして何よりも未練のためであった。
最初は乗り気ではなかった。女のフリをして護衛など、バカバカしいとさえ思っていた。
そんな中、白凪館のメイドたちと出会い、リーナやルーカス達と出会い――――そして凪と出会った。
この頃はまだ『不思議と悪くはない』といった程度にしか思っていなかった。
凪のおかげで再び歩き出せたあの日、
此処を離れたくない。
もう少しだけこの場所に――――彼女の傍らに居たいと思った。
しかし
もし
意図はどうあれ、凪を騙していたことには変わりがない。裏切られることを何より恐れていた少女を、最初から騙していたのだ。
許されるとは思っていない。受け入れられるとは思っていない。
けれど、もしそれでも彼女が望んでくれるのなら。
「これが……私の『嘘』です」
とても戦闘を生業としている者とは思えない、綺麗な指だった。
「――――え?」
間の抜けるような、珍しい凪の声。
そこに書かれていたのは、『Male』という四文字だった。
「――――私、男なんです」
凪が揺れる瞳で
何が、誰が、何故? 大量に浮かんだ疑問が、濁流となって凪へと襲いかかる。
「え……なっ……は?」
「っ……ごめんなさい、少し……部屋に、戻るわ。貴女も……あなたも、一度部屋に戻りなさい」
所々で躓きながらも、どうにか言葉を絞り出す凪。
――――畏まりました、と。
* * *
如何に大人びているといっても、凪は所詮十六になったばかりの少女だ。
自身の感情を完全に押し殺すことなど出来はしない。思いもしなかった真実を一度に叩きつけられて、冷静さを保っていられるほど成熟していない。否、成熟した大人ですら難しいだろう。凪が驚愕し、動揺し、感情を乱したことを責められる者など、世界のどこにも居はしないだろう。
凪が半ば逃げるような形で、部屋へと戻ってから数刻。
次第に回り始めた彼女の頭は、自身の失態を強烈に告げていた。
悩む必要などない事だった。
少し考えれば分かることだ。少し記憶を思い起こせば、簡単に辿り着ける答えだった。
そんなもの、『私の為』以外に何があるというのか。きっかけが何であれ、その一点だけは間違いない。
どこの誰であっても構わないと、そう何度も言っていたのは誰だ。
貴女の正体がなんであれ気にしないと、そう言ったのは誰だ。
気に入っていたのは彼女の外見なのか。気に入っていたのは彼女の内面ではなかったのか。
普段から飄々としているあのメイドが、実は人付き合いが苦手だという事には薄々気づいていた。
何しろ凪自身もそうなのだ。そして同類であればこそよく分かる。先の告白が、どれほど勇気のいる行為だったか。
あの不遜なメイドが、声を震わせていた。
あの不躾なメイドの、指が震えていた。あれほど強い存在が、自身からの『拒絶』を恐れていた。
だというのに、あの時の自分はそれに気付けなかった。あの時の自分は答えを『保留』にしてしまった。
成程確かに、あの時の自分は動揺していた。混乱していた。まともに思考が出来る精神状態ではなかった。
しかし
そんな後悔と自責の念が、凪の内から次々に吹き出していた。
だからこそ今、凪は早足で
(……主失格だわ。あの子を信じると言いながら、あの程度のことで狼狽えて……みっともないったらないわね)
ならば自分も同じだ。『信じる』と口にしながら、揺れてしまった。手放したくないと、本心からそう思っていたくせに。
(まずは謝らなくては。それから――――雇用契約の延長も)
その真意に凪は凪は気づいていた。先の総会での一件で、護衛としての契約が満了となった事に。
そして父が一度雇用契約を結べたのなら、今度は自分との契約を求める事も可能な筈、と。
仮に断られた場合でも、凪は
(こう思うのはもう何度目か分からないけれど――――ふふっ、我ながら変わったものね)
自嘲気味に笑う凪の瞳に、何の装飾も為されていない地味な扉が映る。
白凪館の最も奥まった場所にある、
扉を前に、小さく深呼吸をする凪。
所詮は凪も対人弱者。相手がメイドとはいえ、部屋を訪ねるにはそれなりの勇気が必要だった。
「
出来る限りの威厳を保ちながら、けれど自分でも『違う』と思うような声量で。
ゆっくりと扉を叩き、返事も待たずにドアノブへと手をかける。
「さっきはその、みっともない姿を見せてごめんなさ――――」
音も、匂いも、気配でさえも。
静かに開いた扉の先には、もう何もなかった。
唯一、恐らくは私物であろう黒いリボンだけが、机の上に残されていた。