あれからどうやって帰ったのかアレッタはよく覚えていなかった。家までの距離がとても遠く感じ、玄関を開けるとぐったりとしてリュックを置いた。リュックが鉛のように重い。
<天使天使天使! 今日は天使デーね!>
「あら、お帰りなさい」
2階に上がろうとしていた母親がアレッタに声をかけた。
「ねぇアレッタ。明日のことなんだけど、またオリビアのところに会いに行くつもりじゃないでしょうね」
「そうだけど」
母親はアレッタを説得した。
「もう彼女のところへ行くのはやめなさい」
「どうして? 彼女は親友よ」
「何が親友よ。あなたに薬物を飲むように強要して、しかもこんな酷いことするなんて。友達でもなんでもないわ。彼女は悪魔よ」
<何も知らないくせに>
アレッタは母親の話を無視して、洗面所へ向かおうとする。
「それにその髪の毛の色も戻したら? あんなに綺麗な金色だったのに」
「私のことは放っておいて!」
洗面所の扉を勢いよく閉めるとマスクを外し、蛇口を捻って顔を洗う。そして鏡で自分の疲れた顔をじっと見つめた。
<また染め直さないと>
母親の言う通り、アレッタの本当の髪色は綺麗な金色だった。少しでも人目に触れないようにとわざわざ黒色に染め直しているのだ。
「オリビアは私のせいで巻き込まれたのよ。彼女は悪くないんだから」
†
次の日、アレッタはニュースを見ながら昼食を済ませた。
『次は天使が死体で発見された事件です』
席を立とうとしたアレッタだったが、ニュースの内容が気になりテレビを食い入るように見る。昨日の天使の死体の話がメディアで取り上げられているのだ。
『専門家の調べでは、組成比は人間であることがわかっており、人間の体に翼を縫い付けたのではないかと予測しています。さらに調査を進めるとのことです。さらにエンゼル・ラインの町では、行方不明者も多く出ており、最近では3人の行方がわからなくなっています。皆さん、この顔に覚えがありましたら、情報提供をお願いします』
3人の行方不明者がテレビに映し出される。どれも若者で、どこか顔色の悪そうな印象だった。特に右側の髪の長い男に関しては目の隈が一層濃い。
母親はいやねぇと心配そうな声をあげた。
「天使の死体に行方不明者。たしかに最近になって行方不明者が増えたような気がするわ。近くに人攫いがいるのかしら。この町も治安が悪くなったものね。アレッタ。遅くならないうちに早く帰ってくるのよ」
<あれは人間だったってこと? 本当に? 翼をどう説明づけようとしているのかしらね。次のニュースが楽しみだわ!>
玄関の戸を開けると、腕を組んでやれやれと言った顔をしているロイザミエルが待っていた。
「本当に行くのか?」
ロイザミエルに母親と同じことを言われ、アレッタはうんざりした表情でずんずんと道を歩く。
「親友だから」
「自分の名前もまともに書けなくなってるのにか? もう2年も経ってるのに一向によくならない」
「彼女は正気に戻る」
「執着だなこりゃ」
「私のせいなんだから、お見舞いに行って当たり前でしょ!?」
アレッタは"執着"という言葉が許せなかった。くるりと向きを変えてロイザミエルに噛みつく。天使の死体のことを訊こうとしたが、一気に言う気にならなくなった。
「天使様にはわからないわよね? 孤独がどんなものか。温かな光を与える側なんだもの」
「天使だって孤独を感じる」
「どうかしら。オリビアはね、孤独で押し潰されそうだった私に光を与えてくれたの。楽しいこと、ハラハラすること、悲しいこと全てを教えてくれたかけがえのない存在なのよ。あなたにはいないの? 誰かに救われたって経験が」
ロイザミエルは足早で歩いていたアレッタの腕を掴んで止めた。
「何よ!」
「いる」
彼は先程とは違って真剣そのものだった。
「誰かに救われたことくらい、ある」
黒色の瞳から金色へと変わっていく。気持ちが高ぶっているのか、アレッタはその勢いに押されて「そう」としか返せなかった。
†
オリビアの家に着くと、ロイザミエルは天使の姿に戻った。天使の姿はアレッタ以外には見えないのだ。
「あなたも中に入るの?」
「俺はパートナーだぜ? 君の家に居座らないだけマシだと思ってくれよな」
「お願いなんだけど、中には入らないでせめてここで待っていてよ。私はどこにも逃げやしないから」
ロイザミエルは肩をすくめて、「わかったよ」と呟いた。
オリビアの母親がアレッタを迎え入れる。母親は以前にも増してやつれているように見えた。
「おばさん。なんだか疲れてるみたい。もうメディアは追ってきてないでしょう?」
「えぇ、えぇ。そうなのよ。ちょっと病気を患ってしまってね。でもすぐに治るから大丈夫よ。それにね、アレッタ。最近あの子の調子も良くなってきたの。文字がすらすらと読めるくらいには治ってきてるわ。ありがとう、アレッタ。あなただけよ、お見舞いにきてくれるのは」
オリビアの母親は目に涙を溜めてアレッタを抱き締める。アレッタもそれを返した。
「オリビアは親友です。彼女には私がいますから」
オリビアの部屋の前に立ち、ノックをすると「はぁい」と抑揚のない声が返ってきた。アレッタは中に入ると、部屋の様子に驚いた。
部屋中に天使のポスターがズラリと貼られている。ベッドの天井にはミカエル、勉強机にはガブリエル。ラフェエルに、詳しく調べないとわからない天使までずらりと並べられていた。小さな丸テーブルには天使の置物とタンブルが置かれ、いくつもの天使に関する書物が積まれている。
前にアレッタがオリビアの元を訪れたのは1ヶ月前のこと。それまではオリビアの調子が悪くてなかなか会うことができなかったのだ。その間、彼女の中に天使でも現れたのだろうか。アレッタは、桃色の熊のぬいぐるみを抱き締めるオリビアの元へ行くと、動揺を隠しつつ、どうにか微笑んだ。
「久しぶりね、オリビア。どうしたのよ。こんなに天使に囲まれて」
ベッドの真ん中で橫座りをしていたオリビアは幼稚園児が喋るようにたどたどしく言葉を紡ぐ。
「お姉ちゃん! あのね、あのね、オリビア。天使になりたいの」
「そうなの。天使になって何をするの?」
オリビアはパッと目を輝かせて両腕をパッと広げた。その時に、熊のぬいぐるみがベッドの下に落ちる。
「空を飛びたい! きゃはは! 空を自由に飛んでみたいの! お姉ちゃんも一緒に飛ぼうよ! 気持ちいいと思うなぁ! きゃはは!」
両腕を水平に広げてびゅーんびゅーんと言いながら、空を飛ぶ真似をしている。アレッタは落ちたぬいぐるみを拾ってオリビアに渡した。
「このぬいぐるみ、私の部屋にもまだ飾ってるのよ。お揃いだもんね。ほら、落としたわよ」
「ありがとう」
オリビアの声色が変わった。そして渡されたぬいぐるみを大事そうに枕元に置くと、アレッタをじっと見つめた。
「アレッタ? アレッタなの?」
「そうよ、アレッタ。アレッタよ! 思い出してくれた?」
アレッタはオリビアの手を握ろうとすると、彼女は急いで手を引っ込める。そして恐ろしいものを見るような目つきで彼女を見ていた。
「ルーシーは!? ルーシーもどこかにいるんでしょ! いやよ! もうあんな目には遭いたくない!」
それからオリビアは両膝を抱えて、体を震わせて怯え始めた。
「オリビア。ルーシーは死んだのよ。もうどこにもいないわ。ごめんなさい。私のせいで怖い目に遭わせて。ごめんなさい。オリビア」
「来ないでぇぇ!! ここから出てって! 出てってよぉ! いやぁぁぁぁ!!」
オリビアの母親が急いで部屋に入ると、半狂乱になったオリビアを抱き締めた。
「オリビア。大丈夫。大丈夫だからね。ごめんなさい、アレッタ。今日はもう帰ってちょうだい」
「……はい。帰ります」
部屋からおずおずと出て、玄関まで向かうとオリビアの母親がアレッタを止めた。
「アレッタ。来てくれるのは嬉しい。本当に嬉しいんだけど。オリビア、だんだん回復していってるのよ。正気に戻ろうとしてるの。だからね、その……」
言いづらそうにしている母親のために、アレッタは言葉を被せた。
「はい。わかりました。もう、彼女には……オリビアには会いません。それが彼女のためなら」