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第6話

 工房の隣にある部屋がリビングになっており、その奥のキッチンで杏が鼻歌交じりにコーヒーを淹れていた。

 リビングでは奏と空野がテーブルに向き合って座っていた。空野は紙のように薄い端末を持ってきて起動させた。そこには前もって渡された情報が映し出される。

「生身と機械を繋げるバイオジョイントは適合。マテリアルジョイントも問題なし。そう言えばN4SにはCPUの発熱問題があったよな。その辺は大丈夫?」

「アップデートしてからは。ただ複雑な行動を長時間するとやっぱり熱を持っちゃいます」

「それは機構上仕方ないな。技術が進歩してもヒートシンクじゃ限界がある。水冷にすると重くなるし、空冷だと高負荷でファンの音がする。どうしてもって言うなら付けるけど」

「要りません。その……分かるとイヤだし」

「だよな。そこらはAIの調整でなんとかしてみよう」

 空野は「さてと」と呟き端末を折り畳んだ。

「現時点で日常生活には支障がない。センサーも最新式で高性能だから物を持った感触も元の腕とさほど変わらないだろう。疲労もないし、日焼けもしない。なにが不満だ?」

 奏は取り付けられた右腕を見つめた。空野の言う通り日常生活で使う分には問題ない。むしろ筋肉の少ない奏からすれば重い物も疲れずに持ち運べる分便利だった。

 しかし、奏にとって最も重要な機能がこの腕には欠けていた。

「…………音が、違うんです」

 電脳義手の手術から一ヶ月後。リハビリを終えた奏は緊張しながらピアノの前に座った。

 そしてバッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻を弾いてみた。

 始め、その腕は金属で構築されているものとは思えないほど優雅な音を紡ぎ出した。

 奏は嬉しく思い、母親は泣いていた。しかし、すぐに奏は異変に気付く。

 音が違った。どれほど意識してもいつも弾いていた自分の音ではない。

 何度も練習して身に付けたあの音とは違った。綺麗な音色ではあるが、別の誰かが弾いているような気がした。その違和感はみるみるうちに肥大し、奏は演奏するのをやめた。

 その時のことを思い出し、奏は拳を握った。

「……あれはわたしの音じゃない」

 悲しさと悔しさを混ぜた相貌の奏を見て空野は納得していた。

「なるほど。それが君の望みなわけだ」

 空野は椅子にもたれ、頭の後ろで手を組んで天井を見上げた。

「自分の音か……。俺は演奏家じゃないから分からないけど、あるんだろうな。それがその腕と搭載されたAIじゃ出せない」

 難題。空野の口ぶりからそれが奏にも理解できた。しばらく二人は黙り込む。

 沈黙を破ったのは義手義足の少女、黒瀬だった。笑顔で三人分のコーヒーを持ってきた。

「はい。どーぞ。奏ちゃんはミルクとお砂糖どうする?」

「えっと、どっちも多めで」

「はーい」

 黒瀬は楽しそうにコーヒーを白く染めていく。それを奏に渡し、空野の前にはブラックを置いた。

「はい先生」

「うん」

 三人はコーヒーを飲み、ほっと一息ついた。すると黒瀬が笑って提案する。

「いっそ指を十本とかにしちゃったら? そしたら今まで弾けない曲も弾けるかも!」

「そんなことするわけないでしょ。ただでさえ電脳義手の音はDTMみたいだって馬鹿にされてるのに」

 奏は黒瀬を睨み、そして俯いた。

「誰にでも出せる音じゃ意味なんてないのよ……」

 それは奏の存在意義がないのと同じだった。ずっと自分の音を積み上げてきた。それで世界を魅力し、それで世界と戦っていく。そのはずだった。

 だがそんな積み重ねは旧式オートブレーキシステムの故障で起きた事故によって一瞬のうちに瓦解してしまった。電脳義手で日常生活は取り戻せても自分の音は戻ってこない。

 努力をつらいと思ったことはない。だが努力の成果を取り上げられれば別だ。

 奏は今まで自分が歩んできた人生が全て無駄だったように思えた。

 そしてそれを否定するためにわざわざこんな最果ての地までやってきたのだ。

 しばらく思案し、空野は口を開いた。

「まあ、やるだけやってみるか。でもな。分かってるとは思うけど、うちはワンオフのオーダーメイドだ。だから保険もきかない。整備の問題もある。壊れたらうちかうちと提携している店でしか直せない。アルゴリズムだって組み直しだからな。正直不便だよ。日常で使う分には大手メーカーの方がよっぽど優れてる。それでもやるか?」

 改めてそう聞かれると奏の決意が僅かに揺らいだ。

 今のところ日常生活は既存の義手で支障なく使えている。勉強できるし、運動も可能だ。

 義肢のオーダーメイドは社会的に白い目で見られる。

 既存の義肢には能力を制限するためにAIのロックが掛けられている。これは大手メーカーが世論を受けて設けた自主規制だ。

 オリンピックよりパラリンピックの方が優れた記録が出る昨今、生身の人間の一部は電脳義肢を不公平な改造と見るようになった。

 AIの機能を制限した義肢でもそれなのに自主規制を排除したオーダーメイド品などを付ければ冷たい視線を向けられてもおかしくない。

 奏の母親は心配していた。友達との関係に影響が出るんじゃないか。就職に影響が出るんじゃないか。結婚に影響が出るんじゃないか。何度も何度も口論になった。

 そのたびに奏は揺れていた。理想と社会的な倫理の狭間で揺れていた。

 そんな時、頭の中で自分の奏でた音がする。自分が育てた自分だけの音が。

 不安はあった。それでもここに来る前に決めていた覚悟が勝った。

 ピアノが奏の全てだった。それを諦めるなんてありえない。だからここまで一人で来た。

 奏は顔を上げ、空野を見つめる。

「やります」

 奏の目の奥に覚悟を見た空野はフッと微笑し、頷いた。

「分かった。なら俺もできる限り手伝おう」

奏はホッとして「よろしくお願いします」と会釈した。まだ怖かった。それでもやめようとは思わなかった。そのことが自分のピアノへの愛を証明できたみたいで嬉しかった。

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