朝、奏は小鳥の声で目を覚ました。遠くで波の音がする。家からは檜の匂いがした。
空野からは今回の制作期間は一ヶ月ほどだと前もって知らされていた。
なので奏はしばらくこの孤島に住むことになる。娯楽なんて自然くらいしかないが、都会育ちの奏からすれば新鮮で楽しかった。
隣の布団では黒瀬杏が気持ちよさそうに寝ていた。腕が柔らかそうな素材の義手に付け替えられている。奏がスマートデバイスを見るとまだ朝の五時前だ。
昨日は簡単な説明を受けてから島で採れた海鮮料理を振る舞われた。黒瀬が料理用の腕を装着したこともあり、搭載されたAIが三つ星シェフ並の品を次々と作り出す。その料理があまりにもおいしかったので食べ過ぎてしまい、夜の九時には眠くなった。
いつものくせで右手で体を持ち上げた奏は違和感のなさに違和感を感じて苦笑した。
体を起こす時も重くない。その気になれば片手で逆立ちだってできる。だが便利すぎるこの右腕にはまだ慣れなかった。きっといつまで経っても自分のものと思えないだろう。
奏は黒瀬を起こさないように部屋から出るとそのまま家の外に向かった。
丘の上に建つこの小さな煉瓦造りの家からは島を一望できた。裏手には畑があり、森が広がる。正面には砂浜があり、港が見え、そしてどこまでも続く青い海と空が伸びていく。
奏は深呼吸すると嬉しそうに呟いた。
「空気に味があるのね……」
朝陽を浴びながら奏は気持ちよさそうに伸びをして、それから少し不安になった。
自分がこうしている間にもライバル達は練習している。電脳義手になった今、同じ舞台にはもう立てないのかもしれない。これから自分がどうすればいいか奏にはまだはっきりとしたビジョンを描けないでいた。そのことに焦りを感じる。
だがそれも自分の音が取り戻すことができれば変わる気がした。
「早起きだな」
背後から声をかけられ、奏は体をぴくりと震わす。振り向くと空野がマグカップに淹れたコーヒーを飲みながら立っている。
「おはようございます……」
「おはよう。寝られたか? 杏はうるさかっただろ?」
「大丈夫です。寝過ぎたくらいですよ」
「そうか。疲れてたんだな」
そう言われて奏は腑に落ちた。思い返せば心も体も疲れていた。
腕がなくなってからはずっと悲しかったし、悔しくもあった。リハビリだって頑張った。バイオジョイントの手術は成功したが、適合するまでの三日は痛くて仕方なかった。
だが泣き言一つ言わず我慢した。負けたくなかったから。
「……かもしれません」
力の抜けた奏の表情を見て空野はフッと笑った。
「うちの朝食は七時だ。それまでは好きにしたらいい。遠出したいならスクーターもある」
「免許がないです」
「じゃあ自転車だな。うちのは電池も姿勢制御のAIも付いてないけど」
空野は家の隣にある駐車場の辺りを指差した。小さな屋根の下にスーパーカブとママチャリが置いてあった。
「……そ、そのうち使わせてもらいます。今日は散歩でいいです」
奏は自転車に乗れない。正確にはAI付きの電動自転車しか乗ったことがなかった。
「そう。じゃあ迷わないようにな。あとイノシシには気を付けて」
空野はそれだけ言うと工房の前にあるテラスに向かって行った。
奏は小さく身をすくめて島を見渡した。
「イ、イノシシって……」
奏は自分の右腕を見つめる。ピアノばかりしてきたか弱い奏を守ってくれそうなのはこれくらいだった。
ため息をつく奏が悩んでいると一匹の猫が畑を横切ってきた。背中がグレーでお腹が白い。そして驚くことに尻尾が金属でできていた。
猫はびっくりする奏を一瞥すると田舎道の端っこをトコトコと歩いていった。その後ろ姿を見て奏は少し安心する。こんな猫が自由に生きられるのなら安全なのだろう。
「心配しすぎね」
顔を上げた奏はこの一ヶ月で島を回るという目標を立て、猫の後ろをついていった。