やる気の出た奏は翌朝早起きして黒瀬を手伝った。
一緒に畑に行って朝と昼に食べる分の野菜を収穫する。採ってみて初めて奏はキュウリに棘があることを知った。
黒瀬がスープを作り、卵を焼いている間に奏は採ってきた野菜でサラダを作る。ドレッシングも買ってきたレモンとオリーブオイルで作ったお手製だった。
食事が終われば調整だ。昨日空野が改善した義手と黒瀬が作り直したAIを搭載したものを装着する。数時間動かしてみてセンサーからデータを取る予定だ。
フェリー乗り場に行ってピアノを弾いてみる。新しい義手の調子は良かったが、やはり昔の音は出ない。それでも奏はいつもより多く弾いてみた。すると微かだが馴染んでくる。もしかしたらと思ったが、やはり根本的な違和感は消えないままだった。
それでも奏はめげなかった。持ち前の根気で粘り強くアプローチすればいつか自分の音に合う義手が手に入るはずだ。そう信じていた。
だが時間は少しずつ減っていく。奏が島に居られるのもあと一週間ほどだ。
どうせなら見られる限り島を見たい。そう思っていた奏はピアノの演奏を終えると自転車を漕ぎだした。小さな島なのでもうほとんど見て回ったが、未だに知らない小道を行くと小さな神社が待っていたりする。そういうのを探して写真を撮るのが楽しかった。
この島には猫もたくさんいる。いつも撫でてあげる猫は奏を見ると近づいてきた。もう義手だからと警戒する子はいない。気持ちよさそうに喉を鳴らして体をくねらせる。
かわいいものが好きな奏は幾らか満足しながら工房へと戻った。風を浴びながら海岸沿いを走る。追い風が吹くとぐいぐい進んで楽しかった。
だがそれも工房へと続く坂までだ。ここからは自分の力だけで登らなければならない。
奏が坂の前で気合いを入れようとするとまた草むらがガサゴソと動き出した。もしやと思ってそちらを見ると前と同じ場所からウリボーがちょこんと顔を出す。
「やっぱり!」
奏はすぐさま自転車を降りてスマートデバイスを取り出し、写真を撮るために構えた。
紙のように薄いディスプレイを伸ばし、カメラアプリを起動させると画面にウリボーが映る。優秀なオートフォーカスとAIによる構図調整でプロ並みの写真が撮れた。
満足した奏だが、次の瞬間凍り付いた。オートフォーカスがウリボーの奥で動く影を探知し、そちらを映し出したのだ。
そこにいたのは大きなイノシシだった。子供の危機を感じ取ったのか奏を睨み付ける。
奏の顔はさっと青ざめた。いつか空野に教えてもらったことが思い出される。
「親のイノシシを見たらすぐにその場を離れろ。都会に住んでると知らないだろうが、イノシシってのは危険な生き物だ。特に牙が危ない。ナイフみたいにスパッと切れる。言うなれば体重八十キロの筋肉質な男がナイフを持って時速五十キロでタックルしてくるって感じだ。やばいだろ?」
やばすぎた。奏は汗をかいた。もとからかいていた運動後の汗ではなく、緊張からくる汗だ。逃げないと危ない。下手をすれば殺される。
でもどこへ? 元来た道? それとも坂を登って助けを求める?
悩みは奏の体を硬直させた。そうこうしている内にイノシシはじりじりと距離を詰める。
その時だった。どこからか颯爽とテイルが現れて奏とイノシシの間に割って入った。
「テイル!」
テイルは名前を呼ばれても振り向かない。イノシシを見つめたまま頭を坂の方に振る。
まるで坂を登れと言ってるみたいだった。奏は悩んだがここにいてもなにもできないと悟り、自転車に跨がって坂を上り始めた。
「先生を呼んでくるから! 危ないと思ったらすぐ逃げてよ!」
奏は必死になって坂を登った。息を荒げながらペダルをグルグルと回す。汗を流し、疲れに耐えながら無我夢中で自転車を漕いだ。
足が硬くなり動かしにくい。息で肺が痛い。汗で手が滑る。それでも奏は漕ぎ続けた。
苦しさから下を向いていた奏だが、いつの間にか勾配が緩くなっていた。顔を上げるとすぐそこに工房が見える。その前のテラスでは空野と黒瀬がコーヒーを飲んでいた。
奏は坂の上で体力を使い果たし、自転車を降りて息を整えていた。
異変に気付いた二人が奏の元にやってくる。
「どうした?」
奏は話すのもしんどかった。なので坂の下を指差し、言える単語だけを選んだ。
「はあ……はあ……、テ、テイルが…………、イノシシと…………」
「テイル?」空野は首を傾げた。「テイルならそこにいるけど?」
奏が空野の見ている方を振り向くとそこには悠然と坂を登ってくるテイルの姿があった。どうやら無事らしい。かと思えば銀色の尻尾にはまだ新しい鋭い傷が付いてる。
奏はホッとしてその場にへたり込んだ。倒れそうになる自転車を黒瀬が支える。
奏が地面に手とお尻をつくと柔らかい砂の感触が伝わった。
顔を上げた瞬間、眼前に広がる美しい空と海を見て奏は自然と笑っていた。
「……そっか。わたし、登ってこれたんだ」
全身を包む心地よい疲労を感じると、奏はようやく自分がなにを求めていたか分かった気がした。