三話
登山は喜びと苦しみの連続だ。
登り始めはまだ体力もあるし勾配も緩いから周りの草花やたまに見える鳥や小動物なんかを楽しめる。
だが中盤に差し掛かると疲労で体が重くなってくる。勾配もきついし、大体ここらで一度休む。手頃な岩の上で食べるおにぎりはただ米を握ったものとは思えないほどおいしい。
終盤は地獄だ。足は棒のようになり、息も荒くなる。
高い山だと空気が薄い上に勾配がきついから進みが遅い。一歩進むたびに汗が噴き出る。装備の重みがずしりと感じられ、リュックが肩に食い込む。視線は自然と下を向いた。
やめたい。もう下りたい。そう思いながら岩場を歩く。雨が降っていると滑りやすく危険だ。一度落ちればそのまま数十メートル下まで真っ逆さま。当然死ぬ。
そんな危険を感じながらも疲れと低酸素で頭がぼーっとしてくる。
苦しい。苦しい。苦しい。だがそれも頂上が見えれば全て吹き飛ぶ。
足が軽くなり、顔が上がる。息も楽になり、まだ自分の中にこんな力が残っていたのかと驚くほどだ。
頂上からの景色はいつだって絶景だった。
どこまでも続く空。眼下に広がる山脈。自分が歩いてきた道が分かるとあんな遠くから来たのかと更に感動する。
しばらく景色を眺めて休憩したあとは恒例の撮影だ。スマートデバイスで辺りをぐるりと録画する。写真もたくさん撮って妻や娘に送った。
お湯を沸かしてコーヒーを淹れていると早速着信があった。
妻と娘の声を聞くと俺も嬉しかった。ビデオ通話で周りの景色を見せてやると妻が喜んだ。四歳になる娘も「おそらきれー」と空を指差している。
「帰りも気を付けてね」
妻にそう言われた俺は「ああ。心配しないで大丈夫だよ」と頷いて通話を終了する。
かわいい娘と妻のためだ。ケガなんてできない。
コーヒーを飲み干した俺は名残惜しく思いながらも下山し始めた。
あまり知られてないが山の事故は下山時に多い。疲れている上に体重が一点に集まりがちだ。足場を見誤ればプロの登山家だって命を落とす。
そのことを知っていた俺は慎重に岩場を下りていく。急がないでいい。まだ時間はある。
まずはキャンプまで戻って、夜空を見ながら食事を作ろう。明日になれば麓の温泉が待っている。
万事上手く。そのはずだった。
きっかけは落石だった。ガラガラという音が上から聞こえて見上げると両腕で抱えるサイズの岩が降ってきた。
間違いなく当たれば死ぬ。俺は咄嗟に身を躱した。だが方向を間違えた。木の生えている方へ落ちればまだなんとかなったかもしれない。
しかし俺が反射的に選んだのは岩場の方だった。鋭い岩にぶつかりながら俺は下へと落ちていく。
しばらくして俺の体は岩の隙間に挟まり動かなくなった。
血が流れているのを感じる。そのせいで意識が朦朧とする。そんな中、俺は必死に体を動かした。
ここで動かないともう家族と会えなくなる。
震える手でポケットからスマートデバイスを取りだし、口元に持ってきてSOSを囁いた。すぐさま端末に搭載されているAIが山岳救助隊に通報。
十分後には救助用のドローンがロボットを積載して飛んできた。ロボットから人の声が聞こえる。
「大丈夫ですか? どこが痛みますか?」
痛みはもうなかった。それどころか人の声を聞いたせいで緊張の糸が切れてしまう。
俺は結局なにも答えられずに意識を失った。