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第26話

 家に帰った一馬は地道な努力を続けた。

 毎朝早起きして三キロのジョギング。仕事が終わると更衣室で義足を取り替えて五キロの道を走って帰る。

 本来は登山が始まらないとAIの補助をカットすることはできないが、「登山開始」とさえ言えばAIは反応する。それを逆手に取って一馬はトレーニングを続けた。

 疲れて動けなくなれば元のモードに戻せば帰れるのも気楽だった。

 家に帰ると風呂に入り、食事を取るとすぐに疲れて眠ってしまう。そんな一馬を見て妻の恵は呆れていたが、「お腹が出るよりはマシね」と認めてくれた。

 次第に早朝のジョギングは五キロになり、仕事終わりは遠回りをして坂の多いルートを選ぶようになる。食事も見直した結果、体は引き締まり、夜にバテることもなくなった。酒も飲まなくなった。

 休日になれば近所の低山に赴いて登る。時には山頂まで二往復することもあった。

 目標は三千メートル級だ。こんな千メートルもない山を手こずっていてはいつになるか分からない。

 工事も無事終わり、一馬は一時的に抜けた埋め合わせをするために部下を連れて無人居酒屋へと向かった。調理も配膳も案内も全てがロボットの無人居酒屋は安く飲めると若者に人気の飲み屋だ。

「いやー。でも竜見さんマジで体変わりましたね。あ。筋肉がって意味です」

 部下の吉田が顔を赤らめながら一馬を褒める。一馬も今の自分の肉体には自信があった。若い頃より動けているし、生身の頃より屈強になった。

「あんまり重くなってもよくないんだけどな。目的は登山なんだし」

「あーそっか。でもそっちの方が格好いいっすよ」

 工事現場で働く若者はみんな体が引き締まっている。ロボットに仕事を任せてはいるが、結局人がやった方が早く済むことも多々あるからだ。だが現場監督になると話は別だ。指示を出す立場なので少し上の世代では腹が出ている人も多かった。

「にしてもいいっすよねえ」

「なにが?」

 一馬はノンアルコールビールを飲みながら聞き返す。

「奥さんですよ。普通だったら怪我した時点で絶対やめさせられますって。俺の彼女もバイクは危ないからやめろってうるさくて」

「いつの時代だよ。今だと転ける方が難しいだろ?」

「そうなんすよ。まあでも金はかかりますからね。結婚するなら貯金は必要だし。でも動けるのって若い間じゃないっすか? だから今のうちに楽しみたいなあって」

「バイクなら歳取っても乗れるだろ?」

「まあそうなんすけど。でも友達だって結婚すると付き合い悪くなるじゃないっすか。多分乗る時間も減るんだろうなって。竜見さんはその辺のところが羨ましいです。俺も結婚するなら趣味に理解がある人がいいなあ」

 吉田はしみじみとしてハイボールを飲んだ。大方彼女の顔でも思い出しているのだろう。

 一馬は複雑そうな笑みを浮かべる。趣味への理解。それが今の妻にあるかは分からない。それでも文句を言わないのは一馬に気を遣ってのことなのだろう。

 足を失い、生きがいと言える趣味まで失えば一馬は立っていられるかどうかも分からない。妻の恵が理解していることがあると言えばそのことだ。

 だが同時に一馬は妻に甘えている自覚を持っていた。子供も手がかかる時期だ。そんな中、休日はほとんど山に向かう一馬を妻がどう思っているか。考えるだけでも恐ろしい。

 一段落したら山に行く数を減らそう。もっと家族サービスしないとな。

 一馬はそう思いながら部下達との飲み会を過ごした。


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