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第27話

 新しい義足を付けてから五ヶ月後。

 日頃のトレーニングの成果もあり、AIから二千メートル級の山を登る許可が下りた。自分の足から許可が下りるなどおかしな話だが、肉体的にも充実してきた実感があった一馬は素直に喜んだ。

 山の難易度は高さだけでは決まらない。日本一高い富士山が誰でも登れる優しい山であるように、低山でも遭難して命を落とすような危険な山も存在する。事前に調べておかないと近所の山にハイキングへ行くつもりだったとしても生きて帰れない可能性もある。

 今回登る山は中程度の難易度だ。基本的には安全だが、一部気を付けないといけないゾーンが存在する。最難関ルートにもなるとロッククライミングをしないといけないが、そちらは一馬の専門ではないので始めから行くつもりはない。

「じゃあ、行ってくるよ」

 妻にそう言った時、娘はまだ眠っていた。

 パジャマ姿の恵は心配そうに一馬を見送る。

「無理はしないでね。ダメだったらすぐにAIに助けてもらってよ?」

「分かってるよ。日帰りだし、そんなに心配しなくていいって」

「……そう。ならもう好きにして」

 恵は眉をひそめるとリビングの方へと消えていった。

 一馬は失敗したかと悔やんだが、今はそれより山に行きたい気持ちが大きかった。土産でも買って来れば機嫌も治るだろうとも思っていた。

 電車とバスを乗り継いで一時間半。登山口までやって来た一馬は緊張しながらも深呼吸をした。山は好きだが、同時に怖さもある。

「登山、開始」

 本当はもう呟かなくてもいいのだが、これを言うとあの時の映像がフラッシュバックして身が引き締まる。死ぬかもしれない。どんな山でもその気持ちは忘れないようにしよう。一馬はそう心に決めていた。

 一歩目が一番緊張する。二歩目になるとそれが薄れてくる。三歩目には楽しくなってきて、それからあとは山を堪能する。

 足の裏にあるセンサーから伝わる感触が気持ち良い。土と枯れ葉、草、小石、木の根。様々なものが混ざり合い、同じ場所など存在しない。

 都会と違って空気も綺麗だ。一息吸う毎に爽やかな香りがする。そこに木々や土の匂い。場合によっては花の香りが混じる。

 足音は硬かったり柔らかかったり色々で、小鳥の鳴き声や川のせせらぎが聞こえる。

 小さな滝に触れると驚くほど冷たくて、飲むと温まった体が微かに冷えた。

 すれ違う人達に「こんにちは」と挨拶しながら時に道を譲り、時には譲られて会釈する。

 休日なので人はそれなりにいた。一馬のように男が一人で登っていることが多い。

 高校生くらいの若者と会ったり、かと思えば一馬の父親より高齢のお爺さんが元気に後ろから追い抜いて行く。

 カップルや夫婦で登っている人達も多い。女性一人もたまに見る。犬と一緒の人達もいる。どれもそれぞれの登山を楽しんでいた。

 山が楽しい。一馬はそう思いながら開けた場所で休憩を取り、お茶を飲みながらミックスナッツを二掴み食べた。山での行動食と言えばこれだ。今更おいしいとは思わないが、軽さといい栄養といい文句がない。ただ口の中が乾くので水分摂取が多くなる。

「慣れてますねえ」

 もうそろそろ立ち上がろうとした時、五十代くらいの男に声を掛けられた。男は汗を拭きながらにこやかに笑う。

「まあ、そうですね。これくらいなら」

「ここはもう何度も?」

「いえ。初めてです」

 一馬は学生時代こそこんな山も登ったが、それ以降は難易度の高い山ばかりだ。日本でそういう山は日本アルプスにあることが多い。

 男は一馬の対面に座るとリュックを降ろして一息ついた。そして照れ隠しで笑う。

「これでも若い頃はもっと登れたんですよ。アルプスとか行ってね。海外で登ったこともあります」

「へえ。すごいですね」

 思った以上の実績に一馬は興味が惹かれた。

「最近は登ってないんですか?」

「仕事が忙しくてね。でも今はそれも辞めて、奥さんとも別れちゃったからやることなくて戻って来ちゃった」

 男は苦笑してから水筒の中身を飲んだ。一馬は反応に困っていた。

「それは……大変でしたね……」

「まあね。でもやっぱり山は楽しいですよ。無心になれる」

「分かります」と一馬は頷いた。「自分もしばらく離れてて、今復帰してる途中なんで山に来るとホッとします」

「猫も杓子もテクノロジーって時代ですけど、ここにはそれがないですからねえ」

 男の言葉に一馬はドキッとした。自分の両足にそのテクノロジーが使われているとは全く思ってないみたいだ。

「……そうですね」

「でもねえ。山はやっぱり遊び場なんですよ」男はしみじみと遠くを見つめた。「プロの登山家なら別なんだろうけどね。そこんところのメリハリはね。大事だとしみじみ思いますよ」

「はあ……」

 一馬はいまいち分からなかったが、山が遊び場だという点においては同感だった。

「じゃあ。自分は」

 一馬はそう言うと立ち上がり、会釈をして歩き出した。その背中に男は言った。

「この分だときっと良い景色が見れますよ」

 一馬は立ち止まって空を見上げた。晴れている。雲がほとんどない。

 一馬は振り返り、「そうですね」と楽しそうに言い、もう一度会釈してからまた登り始めた。見知らぬ人と少しの間だけ話をする。こういうこともまた山に帰ってきたなと思う。

 それから一馬は自分のペースを守り、二時間ほど登り続けた。不安だった岩場は用意されていた鎖を引っ張って上がっていく。思っていたよりも長さはなかった。

 大きな岩が左手に見える。ここを越せばもうすぐ山頂だ。

 義足での登山はやはり肉体への負荷が大きい。わざわざそうしているので当たり前だが、苦しくなるとAIに助けてもらいたくなる。息が上がり、逆に足は上がらない。

 それでも頂上が見えてくると気が楽になった。楽しい。やっぱり登山は楽しい。

 そう思いながら山頂に辿り着くと周りでは登山客が昼食を取っていた。

 一馬はゆっくりと山頂からの景色を見つめる。

 自分が登ってきた日本アルプスと比べると見劣りするが、やはり綺麗だ。晴れているおかげで遠くまで見通せる。深い山がどこまでも続いていた。

 義足を付けてから初めての本格的な登山。当然達成感はすごい。

 そのはずだった。

(…………あれ?)

 一馬は自分の中から沸き立つものがないことに気づき、戸惑った。そして今まで必死に押し留めてきた気持ちと向き合う。

(これってなにが楽しかったんだっけ?)

 しばらく一馬は山頂からの景色を見つめながら呆然と立ち尽くしていた。


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