週末。一馬は最果ての島にいた。
朝に家を出れば昼には着く。テクノロジーの進化は移動に掛かる時間コストを最適化してくれたおかげだ。AIが最短ルートをすぐさま見つけて来てくれる。少し高く付くが待ち時間も疲れも最小限に抑えてくれた。
相談を受けた空野は難しそうな顔をした。
「登山が楽しくない……か」
空野は知るかと言いたい様子だったが、これも仕事の一環だと考え込む。一馬は黒瀬が淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
「すいません……。自分でも分からなくなっちゃって……」
「疲れはあるんでしょう? 前と同じようなレベルで」
「はい。疲れ方は違いますけど」
「それが原因かな。もしそうなら外科手術で脳にチップを埋め込めば解決するかもしれませんね。足はもうないけど脳を騙して疲労を感じさせることは可能です。そこまでやる意味は分かりませんけど」
「……そうですね。さすがに脳を弄くるのは……」
「おすすめはしません。あれはまだ発展途上の技術だし、竜見さんは半身不随でもないですしね」
麻痺患者が働けるために脳にチップを埋め込み、そこから無線で代理ボディを動かすということが今の技術では可能だった。だがそれは外科手術であり、空野の専門ではない。
悩むと目つきの悪い空野の目つきが更に悪くなる。
「正直なところ、心療内科にでも行ったら方がいいと思ってます。自分はあくまで義肢職人ですからね」
「やっぱりそうですよね……。一応AIの簡易診断は受けてみたんです。もしかしたら鬱かもしれないって」
「結果は?」
「可能性は低いだろうって。仕事には普通に行けてますしね」
「山限定ってことですか。ならイップスとかもありますよね」
「登れている時点で違うはずだと言われました。スマートデバイスの診断アプリですけど」
「今のアプリは優秀ですからね。病院だってアプリの診断で受診の必要がありと認められた患者さんしか診ないところも増えてますし」
空野は腕を組み考える。すると黒瀬が苦笑しながら会話に入ってきた。
「なんか深く考えすぎだと思うんですけど」
男二人は気むずかしそうな顔を黒瀬に向ける。黒瀬は呑気に一馬へと笑いかけた。
「楽しもうとしてるのに楽しめないってことは集中できてないんですよ。ほら。勉強でもなんでも集中すると楽しいじゃないですか。気持ちがちゃんと向いてないと集中できないですし、集中できないと楽しくない。きっとそんな感じだと思います」
空野と一馬は二人とも一理あるなと納得した。だが問題が解決したわけではない。
一馬は考え込んだ。
「集中できてない……。たしかにそうかもしれません。でもやっぱり色々と考えちゃうんです。足のことか、怪我をしないようにとか」
「それが普通ですよ」と空野が答えた。「詳しいわけじゃないですけど、山みたいな危険な場所だとそういうのも必要だと思います。集中してるってことは逆に言えば周りを良く見ていないってことですから。ゾーンとかなら別ですけど、危険がどこから来るか分からないなら色々なところに意識を配分できる方が対応の幅が広がります」
空野は一馬の足を見つめて静かに息を吐いた。
「はっきり言うと竜見さんは過去の体験に囚われすぎています。あなたの両足はもうない。つまりもう昔のような体験はできないと言うことです」
一馬はドキリとして、それから両膝を掴んだ。血の流れていない足は冷たく感じた。
空野は続けた。
「ですが今は別の新しい足があります。その足ができることと前の足のできることとは違う。また別の体験ができます。もっとそちらに目を向けて見てください。今手元にある手札で可能なことを探して注力する。それが前を向くと言うことですよ」
「別の体験……」
一馬は俯いた。ずっと過去の体験を追い続けていた。過去の感動をもう一度と手を伸ばす。それはまるで中毒患者のようだと思った。
だがその体験を支えていた足はもうない。なら新たな体験を見つける旅に出るべきなのかもしれない。
幸いにも一馬にはよく動く新しい足があるのだから。いや、なくてもそうすべきだろう。
自分一人なら悩み続ければいい。だが今の一馬には家族がいる。足踏みしていては二人に迷惑がかかるのだ。
「山以外でってことですよね……。でも見つかりますかね?」
空野と黒瀬は顔を見合わせた。黒瀬はニコリと笑う。
「きっと見つかりますよ」
空野は肩をすくめた。
「別に無理矢理離れなくてもいいと思います。場所は同じだって別の体験はできる。山と同じですよ。同じ山でも色々なルートがあるでしょう。一つのルートが崩れたからって山がなくなったわけじゃない。まだどこからか登れるはずです。それを探すのもまた登山なんじゃないですか」
空野の言葉に一馬は納得した。全くもってその通りだと感心する。
「そうですね。たしかにそうです。そうか。別のルートか」
一馬は何度か頷き、また考え始めた。だがその顔は来る時より随分と晴れ晴れしている。
それから三人は相談し、一馬の電脳義足に付けたロックを解除することにした。元の義足に変えてもよかったが、一馬はこの少し重い義足に愛着が湧いていた。
この義足とできる新しい体験を探そう。そう思うと心が随分と楽になる。
だがやはりまだ心の底から楽しめていた昔の状態とは程遠かった。