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第35話

 医療の進歩のおかげもあり、未来は事故から六日後に意識を取り戻した。

 やはりあの足場は安全を考えていないものであり、施工した業者は逮捕された。工事が立て込み、無茶なスケジュールを敢行したのが元凶だった。

 だがそんな事情は被害者にとってはどうでもいい。原因がなんであれ事故は起きてしまい、竜見未来は五歳の若さで左腕と両足を失った。

 医者や現場を捜査した警官からは生きているのが奇跡だと言われた。

 AIが弾き出した確率では生存率は僅か八%だったそうだ。だがそれを素直に喜べるほど竜見夫婦に余裕はなかった。

 事故のすぐ前まで手を繋いでいた恵は自分の行動を悔い、一馬に至っては自分と同じ業種の仕事で娘を殺しかけたことにやるせなさを拭えなかった。

 変われるものなら自分が変わってあげたい。二人は何度もそう思ったが、本当に苦しいのはこれからだった。

 当然保険は下り、未来は今後三十年に渡って最新の電脳義肢が無償で装着できることになった。だが電脳義肢を付けるには乗り越えなければならない過酷な過程がある。

「いたいよお……! いたいよお……! パパぁ! ママぁ!」

 泣きながら両親に助けを求める娘を見て、一馬と恵は涙を流した。

 バイオジョイント手術。電脳義肢と肉体を結ぶために必要なこの手術は終わってからしばらくは大の大人でも泣きそうになるほどの痛みが走る。

 欠損した肉体にIPSで人工的に作った体の一部を手術で取り付ける。義肢による痛みを感じないための手術だが、これが体と馴染むまでが痛い。痛みを乗り越えればバイオジョイントにマテリアルジョイントを取り付け、そこに電脳義肢を付けられる。

 そうしてリハビリが始まるわけだが、一馬にはそこへと至る苦痛を知っているだけに娘のことを思うとつらくて仕方がなかった。恵と二人で娘の残った右手を握る。

「がんばって……。もうすぐ終わるからね……」

「大丈夫だからな……。パパだってそれで治ったんだから……」

 応援するしかない。麻酔を使うと神経と人工神経の接合に支障が出るからだ。

 この痛みの怖いところは乗り越えたあとにあった。どれだけ忘れようとしても痛みは自分が障害者であることを心に刻み込む。

 バイオジョイント手術のあとは鬱になる患者も少なくなかった。もちろん医療機関がケアをするが、そのまま治らない場合もある。

 体は補えても心は補えない。まだ五歳の娘に強くあれと言うのはあまりにも酷だった。

 不幸を前にすると周りはあまりにも無力だ。一馬は自分のふがいなさを情けなく思う一方で、家族がこれと同じ気持ちだったことに気付いた。

 頼むからもう怖い目に遭ってほしくないと思う。できれば時間が巻き戻って欲しいと思う。どうしてなにも悪いことをしていない人が被害に遭わないといけないんだと思った。

「ごめんな……」

 娘のいないマンションのリビングで一馬は恵に力なく謝った。

「…………なにが?」と恵は俯きながら尋ねる。

「……こんなに怖いことを味合わせていたなんて思ってなかった。きっと、未来が退院したら一人でいさせることもしたくない。なのに俺は山に戻った」

 恵はそのことかと言いたげに目を閉じて嘆息した。

「……そうだよ。あの時も怖かった。未来と二人になったらどうしようって。ちゃんと育てられるのかなって思った。でもそれ以上にあなたを失うことが怖かった」

「…………ごめん」

 一馬は恵の背中をさすり、抱き寄せた。体温が低い。朝から病院に行って何も食べてなかった。

「もっとちゃんと言うべきだった。山のことも、義足のことも。でも俺も余裕がなかったんだな……」

 今更ながらだが一馬は当時の自分を思い出した。生きがいを失いたくないばかりに行動し、あわや本当に大切なものを失うところだった。

 そこでようやく一馬はなぜ山が楽しくなくなったのかに気付いた。

 元はと言えば恵に褒めてほしかった。彼女より早く登り、難しい山を登ることですごいと言ってもらえることが嬉しかった。

 結婚して子供ができてからもそうだ。自分はテクノロジーの中で緩んだ男じゃない。強くて頼りがいのある男だと家族に思ってほしかった。なにより難しい山を登ったり、綺麗な景色を見せた時に喜ぶ家族の顔が見たかった。

 支えられていた。一馬は一人で登っていたと思っていたが、家族に支えられていたから山に没頭できていたのだ。そのことにたった今気付いた。

 失われていく若さ。増えていく責任。理想と現実の解離。

 効率化され、ただでさえ生き急ぐ現代の生活に加え、両足まで失えば当然見失うものが出てくる。大切なものほど近くにあって、それ故に当たり前だと思ってしまう。

 見るべきは山頂へのルートではなく、足下の地面だった。

 それを一馬はようやく気付いた。


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