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第39話

 足を滑らせればそのまま崖の下まで落ちていくしかない。

 いくら電脳義足が優秀でも高速で転がり落ちて行く体を支えることは不可能だ。

 小さな雪崩は一馬の体を奈落の底へと連れて行こうとする。大自然の力。そのあまりの強さに逆らえきれず、一馬の頭に妻と娘の顔が浮かんだ。

 その時だった。異変を察知した電脳義足のふくらはぎが割れ、中からもう一本の足が出てきた。計四本の足はがっしりと一馬を支え、そして安全な近くの岩場へと移動させる。

 先の大戦時、山間部での戦闘に使われた小型多脚戦車。その技術を応用したものが一馬の足に搭載されていた。AIも登山用のものを黒瀬が専用にカスタマイズしている。

 これらは空野が予てから拡張できるように工夫しておいたおかげですぐに装着できた。

 心臓がバクバクと鳴る中、一馬はなんとか笑顔を作り、明るい声を出した。

「ちょっとひやっとしましたけど、これが助けてくれました」

 カメラが一馬の足を写す。四本だった足は再び二本に戻った。

 一馬と世界を繋ぐVR空間では悲鳴が歓声に変わった。ロボットが一体流されてしまったが、なんとか帰りには回収できそうだ。装備にも異変はない。

 一馬は再び山頂を目指した。普通のペースなら難しいが、電脳義足ならそこらの山を登っているのと同じ速度で登れる。

 この映像は妻と娘が見ていた。弱気な姿など見せるわけにはいかない。

 一歩一歩進んでいく。AIが今日を選んでくれたおかげで天気は最高に良い。風も緩い。

 それでも先ほど感じた死の恐怖は一馬の全身を硬くさせた。予想以上に疲労が積もる。

 ヘルメットのディスプレイは休憩を提案してくるが、ここで休めば帰りを急がないといけなくなる。登山は下りが危ない。少しでも余裕を持って下るためにここは我慢だ。

 足に疲れはないがトレッキングポールを持つ腕は痛いほど張っている。トレーニングは積んできたが、やはり準備期間が短すぎた。それでも後悔はない。

「パパ~。がんばってー」

 ディスプレイの端で娘の未来が手を振っている。

「無理しないでね」

 心配していた妻も今は応援してくれていた。

 無精ひげを生やした一馬は笑顔を見せながら登っていく。少しずつ少しずつ登っていく。痛みや苦しみを乗り越え続ける。

 そして道はそこで途切れた。山頂に着くと一馬は眼前に広がる世界に包まれるような気持ちになった。気付くと自然と叫んでいた。

 足を失った自分が世界の頂に立っている。娘のために始めたことだったが、救われたのは一馬の方だった。

 登山は喜びと苦しみの連続だ。いつだって苦しみのあとには喜びが待っていた。

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