五話
青春の全てを捧げてきた。
父親に連れられて四歳から始めたテニスが私の全てだ。遊びも恋愛もしてこなかった。
父親もテニスプレイヤーだった。だけどプロにはなれず、その夢を私に託した。
今思い返せば子供がやる練習量じゃなかった。それでも続けられたのは親の期待に応えたいからというのもあるけど、単にテニスが好きだったからだ。
小学生の時は全国で三位になった。中学でもベスト4。高校でも二年生で全国ベスト8と、エリート街道を走ってきた。だけど大きな大会で優勝したことは一度もなかった。
やうやく手応えを掴んだ高校最後の大会。調子も良く、技術、体力共に申し分なかった。私が勝てなかった上級生はもう引退している。
出れば勝てる。日本一になれる。そう思っていた。
だが県大会の二週間前、私は利き腕である右手を失った。
日本を襲った大地震。それに伴って家具が倒れ、腕が下敷きになった。
肩から下を失った時、私は絶望のどん底にいた。もう全てがどうでもよくなった。死にたいとすら思った。
だけど私は顔を上げた。道ならまだある。まだ完全に潰えたわけじゃない。
電脳義肢の発達により盛り上がっている障害者スポーツ。その存在が私に生きる希望を与えてくれた。
一昔前はパラリンピックはオリンピックの下に位置していた。色々と擁護する人はいるだろうけど、間違いなく人気には雲泥の差があった。
障害者は健常者に劣る。口では言わないが誰もがそう思っていた。
だが今は違う。大戦で手足を失った人達が失う前よりも躍動している。それを私は何度も見てきた。
見ていた時は生身の自分とは縁遠いと思っていたが、障害者スポーツの盛り上がりには随分力をもらった。
今世界のスポーツ長者番付ではトップ10の内四人が障害者だ。その内一人は日本人だった。スポーツ番組やCMにも引っ張りだこでその競技を知らない人でも知っていた。
パラリンピックには夢がある。私はこれに賭けよう。そう思い義手テニスを始めた。
なによりテニスをすることで生きるための活力にしたかった。
始めてみるとまるで違う競技だった。見た目は同じだがやると全く違う。
テニスがラケットを扱う競技なら、義手テニスはラケットを扱う義手を操る競技だ。
普段使い用と違いAIの性能も制限されていて、ラケットでボールを打つだけでも難しい。回転をかけるなんて夢のまた夢だ。
始めたばかりの頃はそう思っていたが、次第にコツが分かり、体の動かし方が分かってきた。始めて一年後にはサーブも入るしトップスピンも綺麗に掛けられるようになった。
大会に出始めたのは大学二年の頃。ある程度やれるだろうと高をくくっていたけど一回戦で負けた。一ゲームも取れなかった。こんなのは人生で初めての経験だった。
その屈辱が私に火を付けた。誰よりも練習してやる。子供の頃。親に怒られてもラケットを振っていた。その頃の気持ちが蘇った。
私は朝から晩まで義手テニスに没頭した。誰よりもトレーニングをして、VRによるコーチも雇い、AIの分析に耳を傾ける。
努力の結果もあり、二年後には全国大会に出場。大学卒業後には強豪クラブを持つ硬式テニスの実業団に入ることができた。
その実業団でも頭角を現し、今ではスポンサーが付いてプロとして世界を飛び回っている。目標のパラリンピックまで少しずつだけど前進していた。そんな実感があった。
だけど世界の壁は厚く、私はずっと世界ランク100位くらいでうろうろしていた。
パラリンピックに出るには世界ランク50位前後には入らないといけない。
中々上がらないランクに私はモヤモヤを抱えながらも歯を食いしばって努力を重ねた。
プロとしてテニスを続けるにはお金が必要だ。コーチや練習相手を雇わないといけないし、大会のたびに飛行機に乗って海外に滞在しないといけない。大会で得られる賞金とスポンサーからの収入だけでは普通の生活をするだけでも大変だった。
それもパラリンピックに出れば変わる。露出が増えるからスポンサーの数は今と比べられないほどになるだろう。
自分がウインブルドンで優勝できないのはもう分かっている。世界ランクでトップ10に入ることも不可能だ。それでもパラリンピックならまだ出られる可能性がある。
そう思いながらも年月は経ち、二度のパラリンピックを自宅で悔しい思いで鑑賞し、そうして今、私は三一歳になっていた。
誰が見ても分かる。来年のパラリンピックが私にとってのラストチャンスだと。