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第47話

 練習場に入ると芽衣は念入りにウォームアップを行った。

 若い時と違い、筋肉の固さが気になる。昨日酒を飲んだせいもあるかもしれないが、回復速度は明らかに衰えていた。

 ウォームアップを終えると田川と共にラリーを始める。フォア。バック。トップスピン。スライス。ボレー。ファーストサービス。セカンドサービス。リターン。

 やることは昔からさほど変わらない。基礎をみっちりやり、それから足りないところを補っていく。特に昨今のテニスで重要なサーブは力を入れていた。

 元々芽衣はパワーがあるタイプじゃない。なのでサーブは配球やコントロールを意識して練習していた。スピードやパワーがなくてもコースに決まれば相手を崩し、ゲームをコントロールできる。芽衣のサーブは丁寧で常に相手から遠い位置に着弾した。

 だがいつもと違い、今日の芽衣はスピードを意識していた。少し甘くても義手の出力を上げて速いボールを打ち込む。何度も使える選択肢ではないが、速いボールがあると相手に思わせるだけでもゲームの運び方は随分変わってくるものだ。

 ストロークでもいつもは二手三手と積み重ねて徐々に崩していくところを一手目から決めにいく。

 芽衣だって本当はこういうテニスに憧れていた。力強く支配的なテニスに。

 だが芽衣の体でそれをすることは難しい。若い頃に比べてサーブも遅くなったし、勢いのあるストロークも打てなくなっている。だから今のスタミナと技術で相手を翻弄しながら耐えるテニスを築いてきた。

 しかし本当はもっと強くありたかった。その理想のテニスが今はできる。

 それが嬉しかった。勢いのあるボールがコートの隅を貫くと自信が湧いてきた。

(今なら誰にでも勝てる気がする)

 自信は心の中で木霊し、精神を強くしていく。芽衣の打つボールはより速く、より重く、より正確なものになっていった。

 義手を少し強くした。それだけでこれほどど成果が出るならなぜもっと早く変えなかったのかと悔やまれる。

 だが間に合った。もしこの義手と出会うのがあと一年遅れていたら悔やんでも悔やみきれない。

 活き活きとしたボールを打つ芽衣を甲斐はコートの横で眺めていた。

「調子よさそうですね」

「まあね」

 本来調子はあまりよくなかった。パラリンピックのために無理をして疲労があったくらいだ。だがそんなものは吹っ飛び、調子そのものが上がっているのを芽衣は感じていた。

 そんな芽衣を甲斐は嬉しそうに見つめ、そして提案した。

「もしよかったら試合しませんか? 1セットじゃ長いから6ゲーム先取で」

 芽衣は田川を見た。甲斐はこれから戦うかもしれない相手だ。あまり手の内を見せたくない。だが一方で甲斐の実力を見たくもあった。日本での大会では当たれなかった。

「まあ、それくらいならいいだろ」

 田川の許可が出ると甲斐は「やったー♪」と喜び芽衣の向かい側に移動した。

 もちろん互いに本気ではやらない。そのはずだった。

 甲斐のファーストサーブが芽衣のフォア側をぶち抜く。それを見て甲斐が本気なのだと誰もが分かった。

「入ってますよね?」

「……ええ」

「んじゃあフィフティーンラブで」

 甲斐が次のサーブを打ち込む。芽衣はそれに反応するが返球が甘くなり、前に詰めてきた甲斐に決められる。

「うっし!」

 サーブ&ボレー。時代遅れと揶揄されるこの戦術を巧みに使い、甲斐はこれで数々の強豪を撃破してきた。

 1ゲーム目はあっさりと取られ、芽衣のサービスゲームに移行する。

 芽衣は甲斐の立ち位置を見つめた。他の強豪とやる時より一歩前に出ている。それほど速いボールが来ると思ってないのだろう。そしてその分析は正しかった。今までならだが。

 芽衣のサーブが甲斐のフォア側をぶち抜く。甲斐は反応が遅れて目を丸くしていた。

「入ってるわよね?」

「え? あー。みたいですね……」

 甲斐の額に汗が滲む。同時に目の色が変わった。プレーから隙がなくなる。

 それでも今の芽衣は強かった。一歩も譲らない。そして4ゲームずつ取った後の甲斐のサービスゲームをブレイクする。

 このサービスゲームをキープすれば芽衣の勝利だ。慣れてきたのか甲斐も芽衣のサーブに食らいつくがやはり速くて対応しきれない。

 決まれば勝てるゲームポイントでのファーストサーブ。甲斐はそれを打ち上げてしまい、芽衣のスマッシュが力強く決まる。

 その瞬間、芽衣は金メダルを取れると思った。遙か先の頂が見えた気がした。

 だが着地してから異変が起こる。芽衣の右肩に電流が走るような痛みが襲った。

 一瞬で思い描いた栄光への道は同じ時間で崩れ去った。

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