パラリンピックに向けて最も重要な大会が始まった。
正確に言えばこのあとにもう一つ小さな大会があるのだが、優勝でもしない限り今の順位はひっくり返らない。
甲斐からすればこの大会で芽衣より上の順位に行き、しかもポイントを稼がないといけないわけだ。求められるのは上位進出。芽衣に負けるわけにはいかない。
芽衣も甲斐に照準を定めていた。だがその前に一回戦を勝ち進まなければならない。
一回戦の相手はこちらもベテランのアダルウォルファ。通称アルヴァ。
ドイツのオオカミと言われ、四大大会での優勝経験もある彼女だが、三十五歳になり成績も落ちてきている。二十代の後半までは世界ランクトップテンの常連だった。しかし今では九十位ほどでうろついている。
芽衣とアルヴァの成績は五分だが、AIの予想では芽衣が七割以上の確率で勝てるとされていた。義手の出力を上げなくてもこの予想だ。初戦は楽に勝てる。そのはずだった。
(甘かった……)
予想を越えてアルヴァのテニスは伸び伸びとしていた。長身を活かしたサーブは強烈で、前半からガンガン押してくる。
ランク的にアルヴァがパラリンピックに出られる可能性はかなり低い。それこそ強豪ひしめくこの大会で優勝しなくてはならない。ほぼ不可能だ。
それはアルヴァも分かっている。だからこそ全力を出していた。これが最後になるかもしれない。なら悔いのない試合をすべきだ。トーナメントを勝ち抜くためには体力を残すべきなのだろう。だが余力を残して終わることこそ悲しいことはない。
芽衣は一球受ける毎にアルヴァの覚悟を理解していった。
だが覚悟を決めているのは芽衣も同じだ。そして相手の覚悟が分かるからこそこちらも全力を出さなければならないと思った。
花道を飾らせてやるとか、負けてやった方が盛り上がるというくだらない視聴者目線は持ち合わせていない。
より強い者が生き残る。残酷だが、それがプロの世界だ。そしてその世界で三十歳を越えて立っている二人は互いに同じ思いを持っていた。
勝たなければ次はない。いつ如何なる時も目先の一勝にこだわらなければ先へと進めない。いつか勝てるではダメだ。今だけ。目の前の今だけを勝たなければならない。
アルヴァに一セットを取られ、芽衣の目は対戦相手だけを見ていた。ベンチに行く際、すれ違い様にアルヴァが言う。
「ようやく私を見たわね」
ドイツ人らしい固い英語でアルヴァは笑った。アルヴァもまた打球から芽衣の気持ちが分かっていた。
ベンチに座ると芽衣は汗を拭いた。舐めていた。それは事実だ。だがここまでとは思わなかった。芽衣は立ち上がった。そして大きく息を吐いてからアルヴァを見つめた。
「Danke」
芽衣の礼を聞き、アルヴァは肩をすくめた。
「イヤになるわね。歳を取るって」
「まったくだわ」
二人は笑い合い、そしてまた戦い合った。
芽衣は丁寧に試合を進めた。アルヴァは勢い良く攻めてくる。それはつまり、序盤で決めなければ勝てないということだ。スタミナでは芽衣に分がある。
そのことを理解した芽衣は防御に徹する。強化されたスライスを起点に試合を長引かせ、アルヴァが無理に決めようとしたところを逆に利用してポイントを重ねた。
二セット目は互いにサービスゲームを落とさず、タイブレークに突入。7ポイント先取した方がセットを取る。
取れなければ芽衣の負けだ。しかし芽衣は負ける気がしなかった。
アルヴァのスタミナはかなり削ったし、なによりまだ芽衣は本気を出していない。正確に言えば本気だったが、さらにその上がある。
リミッターを解除して強烈なサーブを決める。そして1ポイントをブレイク。接戦が嘘のようにあっさりとセットを取った。
セットを奪われたアルヴァは天を仰ぎ、そして清々しく微笑んだ。
この時点で結末は決まっていた。
3セット目は芽衣が圧倒する。アルヴァのサーブは弱まり、足も止まった。
だが芽衣は止まらない。ここで止まればパラリンピックには出られない。
3セット目は6ー1で芽衣が取り、一回戦を突破した。
そしてその夜、パラリンピック出場が事実上途絶えたことを受け、ドイツのオオカミ、アダルウォルファは引退を表明した。