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第55話

 試合前のラリーから互いの集中が伝わってきた。まだ練習だというのにミスがない。

 甲斐が一回戦で倒した相手は世界ランク三十五位。ランク上では芽衣すら上回る。

 その相手にも甲斐は自分のテニスを突き通した。結果として二セット先取。サービスゲームは甲斐が全てキープした。

 AIの予想では甲斐有利。芽衣の予想勝率は四割弱だった。

 世界ではあまり注目されていない一戦だが、日本のテニスファンは盛り上がっていた。

 新旧対決。若手対ベテラン。天才対秀才。見出しはいくらでも付けられる。

 そしてテニスファンのほとんどがこれから日本を背負って立つ甲斐を応援していた。

 甲斐がここで勝てばパラリンピックに出られる可能性が一気に跳ね上がる。アイドル顔負けのビジュアルもあり、男性ファンが多いのも一役買っていた。

 誰もが勢いのある若者を有利と見ていたが甲斐だけは前日のインタビューでこう答えたいた。

「正直、今一番戦いたくない相手です。でも乗り越えないといけない相手でもあると思います。えっとだから、すごくがんばります!」

 落ち着いて淡々と話す芽衣とは対照的だった。どんな時でも自然体でいられる。それが甲斐の最も優れた点だった。

 そして試合が始まる。

 大方の予想は外れ、序盤のペースは芽衣が握った。高速サーブと鋭いバックハンドで試合を支配していく。

 だが盛り上がる観客の中で田川だけが焦っていた。

(本当にそれで最後までもつのか?)

 もつわけがないと思いながらももってくれとも田川は願った。

 この試合だけだ。この試合だけ勝てば未来が開ける。パラリンピックまで時間はまだあるので多少の怪我なら乗り越えられるはずだ。

 目標は出場だ。この試合に勝ってそれを決めれば出力の低い前の義手に戻せばいい。

 芽衣は人生の交差点にいた。自分でも驚くほど高い集中力でボールを打ち返す。

 高揚感が痛みを感じさせない。それすら理解できるほど芽衣は冷静で且つ燃えていた。

 互いに2ゲームをサービスキープした5ゲーム目。芽衣にブレイクチャンスが訪れる。

 場が一気に引き締まった。ここが試合の分岐点になる。誰もがそう思った。

 芽衣はラケットをくるくると回してから構えた。フーッと息を吐くと戦略が決まった。

(攻める。ここは守らない。前に出てリターンエースを狙う)

 結果的に強気な選択肢が功を奏した。サーブのコースを読み切った芽衣はリターンエースこそ決まらなかったが甲斐を崩すことに成功。バック側に深く打ったあとに手前にドロップショットを落としてブレイクした。

 試合場から歓声が上がる。チケットを貰っていた黒瀬もキャーキャーとはしゃいでいた。

 一方の田川は肩に負担が掛からないテニスでリードを奪えてホッとしていた。

 甲斐は悔しがって頭を抱える。そんな中で芽衣は飄々としていた。

 試合は有利に進んでいる。だが恐ろしい予兆はたしかにあった。今のも強いショットで決められたのにドロップを選んだのはリターンの時に痛みが出たからだ。

 昨日のアルヴァではないが試合を長引かせたくない。そんな焦りはミスを産み、試合の流れが甲斐に傾き出す。

 しかしそれを力が断ち切った。強いサーブが立て続けに甲斐のコートを貫く。一試合に三本まで。そんなルールはもう消えていた。

 なんとか一セット目を取った芽衣だがベンチに座って体が少し冷えると痛みが出てくる。それを気付かせないように冷静を装った。

 対する甲斐はタオルを頭から被り、貧乏揺すりをしながらブツブツとなにかを言っている。観客にはなにも聞こえないが、芽衣の耳には届いていた。

「弱気になっちゃだめだ。まだまだ全然ある。勝てる。あたしなら勝てる」

 まだ十七歳なのに負けている局面でこれが言える。才能。肉体。そしてメンタル。

 甲斐には強者としての条件が揃っていた。

 芽衣は過去の自分を思い出して苦笑していた。

(昔の私は負けそうになるとすぐに泣きたくなってたわね。いつからかしら。私が泣かなくなったのは)

 肩の痛みに耐えながら芽衣は立ち上がった。そして甲斐もタオルを取る。そこにいたのは自分の勝利を疑わない瞳だった。

 この時芽衣は覚悟をした。それがどういった覚悟かは本人にも分からない。ただあらゆることを覚悟した。

 第二セットはもつれにもつれた。互いに一歩も譲らず、タイブレークの末に甲斐が取った。ここで決めていれば楽だったのにと田川は苦やしむが、芽衣は違った。

 簡単に勝てる相手じゃない。むしろ削れるだけ削ることができた。芽衣自身も削られたが、体力勝負なら誰にも負けない自信がある。

 テニスの最大の特徴はラケットを使うところにある。つまり道具を使うのだ。道具を使って人間の力ではできないスピンを掛ける。人間の手では追いつけないボールに追いつける。ラケットを使いこなしたものがより強くなれる。

 全てが肉体の強弱で決まれば芽衣に勝ち目はない。だが芽衣は技術を磨いてきた。足りない分をそこで補ってきた。

 強さもなければ早さもない。おまけに若くもなかった。だが若くないということは積み上げてきたということだ。若さにはない経験があるということだ。

 勝てない相手に勝つことなら芽衣は何度もやってのけてきた。それが自信に繋がった。

 戦略は重要だが、最も大事なのはそれを実行することだ。実行するには体力と精神力、そして技術が必要になる。

 甲斐対策は誰よりも重ねてきた。田川の協力もあり、甲斐のできることは全て分かっている。芽衣のどこが甲斐に劣っていて、また勝っているのかもよく知っていた。

 疲れがある一定を越すと甲斐のプレー精度が一気に落ちる。一進一退の攻防を続けながら芽衣はそこまで甲斐を連れて行った。

 だが同時に自分の肩も悲鳴を上げた。テニスウェアに僅かだが血が滲む。だがこの時のことを考えて黒い服を着てきたのが功を奏し、誰にも気付かれない。

 5ゲームずつ取った11ゲーム目。二人は同時に限界を迎えた。

 芽衣は歯を食い縛って痛みに耐えた。甲斐は気力を振り絞って疲れを振り払う。

 負けたくない――

 互いに思いは同じだった。

 だがどちらが有利かと問われれば芽衣に分があった。体力が限界になると動けなくなるが、痛みはある一定を越すとそれ以上は感じなくなる。。痛すぎると気絶するが、アドレナリンが出ている今、その可能性はほとんどなかった。

 しかしそれは選手生命がここで終わってもいいならの話だ。

 バイオジョイントが治療不可能になれば資格があってもパラリンピックには出られない。パラリンピックに出ることが目標ならば今は無茶をする場面ではなかった。

 甲斐もこれだけ消耗すれば次の試合で負ける可能性が高い。そうなれば例え負けてもランクが維持され芽衣がパラリンピックに出られる可能性は残っている。

 しかしそれは甲斐がすぐに負けたらの話だ。勝ち進めば芽衣の夢は終わる。この土壇場で他人に自分の運命を委ねるほど芽衣は耄碌してなかった。

 そしてなによりも勝ちたかった。負けたくない。それはテニスを始めた時からずっと思っていたことだ。

 夢でも目標でもない。目の前の一勝にこそ価値がある。負けを簡単に受け入れられる者がプロになれるわけがない。

 芽衣は耐えた。痛みに耐え続けた。そして甲斐のサービスゲームをブレイクする。

 このゲームを取れば勝てる。サーブを決め続ければ勝てる。自分のテニス人生を捧げれば勝てる。

 自分でも驚くほど悩みはなかった。

(この一勝があれば、私はこれからの人生を生きていける)

 マッチポイント。芽衣はサーブで甲斐を崩し、血を流しながらボールをコートの隅に決めた。

「ゲームセット。ウォンバイ、メイ・マツウラ」

 観客は沸き、両者を拍手で讃えた。ネット中継ではコメントや音声が飛び交った。

 田川は目を瞑り、そして静かに息を吐く。

 コートの上では甲斐が空を仰ぎ、芽衣が膝を突いて俯いていた。

 勝者がうなだれ、敗者がそれを見下ろす。対照的で印象的な光景だった。

 なんとか立ち上がった芽衣はネットの向こうで待つ甲斐の元までゆっくりと歩いた。肩が痛すぎて涙がにじむ。反対に甲斐は滝のように汗を流し、肩で息をしていた。

 コート中央で二人が握手を交わすと再び会場が拍手に包まれる。甲斐が悔しそうな笑顔で言った。

「ありがとうございます。まだまだでした。でもこれでもっと強くなれる気がしました」

 先のある言葉だった。芽衣はそれを羨ましく思いながらも同時に少し後悔していた。

「……ごめんなさい」

 芽衣はそう呟くとベンチに戻り、生身の方の腕でバッグを取ると観客に笑顔で手を振り、会場を去って行った。甲斐はぽかんとして「え?」とこぼす。

 その夜。芽衣は大会の実行委員会に棄権の申し入れをした。そして数日後精密検査の結果、これ以上のプレーは無理だと判断し、スポンサーに引退の意向を示した。

 テニス選手としての芽衣の人生はここで幕を下ろした。

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