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第56話

 一ヶ月後。芽衣は最果ての島にいた。今は工房で新しい腕を取り付けている。

「普通の義手ならメーカー製のものでいいと思いますけどね。そっちの方が安いですし、メンテも楽だし」

 空野がそう言うと黒瀬が睨んだ。芽衣は苦笑する。

「ここのが良いと思ったんです。ダメですか?」

「いやいや。うちとしてはありがたいです。新しいバイオジョイントはどうですか?」

「痛みはもうないです。でも不思議ですね。なんだか違う体になったみたい」

「動かせる筋肉も減りますし、その分義手は大きくなりますからね。違う体と言っても過言じゃないです」

 体と同じで芽衣は新たな人生を歩み始めていた。だがどうしてもテニスから離れきれず、今はコーチを目指して勉強中だ。

 甲斐光子は絶望的と言われる状況を跳ね返してパラリンピックに出場を決めた。

 芽衣がいなくなったというのもあるが、次の大会で見事優勝し、今は金メダル候補として世界から注目を浴びている。

 芽衣は後悔していた。あの謝罪は自分が勝ったせいで甲斐の人生から一回分の出場権利を奪ってしまったと思っていたからだ。若い頃の経験は大きい。世界から注目される場なら尚更だ。しかし芽衣が思っているより甲斐は強かった。

 優勝した時に甲斐はインタビューでこう言っていた。

「松浦さんに負けてその悔しさをバネにここまで来ました。もう戦うことはできないけど、先輩の分まで勝ちたいと思っています」

 あの試合で終わりではなかった。むしろ始まっていたのだ。芽衣は後輩にバトンを渡せたことを今では誇りに思っていた。

 今は次の人生に向かうまでの小休止だった。このゆっくりとした島はのんびりするのにちょうどいい。

 新しい腕を付けた芽衣は田川と一緒に借りたボートに乗っていた。島の周りをゆっくりと一周するコースだ。AIが制御してくれるため、邪魔な人間はどこにもいない。その上どれだけ揺れてもひっくり返る心配もなかった。

「後悔はないけど、なにが正しかったんだろうって今でも思うわ」

 芽衣はボートに揺られながら空を飛ぶうみねこを見つめてそう呟いた。

 田川は反対側で同じくうみねこに視線をやった。

「多分だけど、それが人間なんだ。AIだったら確率から逆算して正解を選べたかもしれない。怪我もしないでパラリンピックに出られる方法はたしかにあったんだから。でもそこに誇りはない。君にはそれがあった。だから俺はここまでついてきたんだ」

「ならない方がよかったのかもしれないわね。上手くて可愛くて若い子だってたくさんいるわけだから」

 芽衣が微笑むと田川は肩をすくめた。

「もう遅い。俺はおじさんになっちまった。今更若くて可愛い子は寄りつかないよ」

「私はまだ自分をおばさんだと思ってないわよ?」

「俺も思ってないよ。いくつになっても君は君だ。誇りが消えない限りはついていく。君はよくやったよ」

 田川はそう言うと芽衣は照れながらも嬉しそうに微笑んだ。

 失ったものは大きい。腕も、テニス選手としての人生も既にない。本当に欲しかったものは二度と手に入らなくなってしまった。

 だがそのために捧げてきたからこそ今があり、これからがある。本当に欲しいものはまたそこで見つければいい。

「後悔しても知らないわよ」

 芽衣は田川にキスをするとそのまま押し倒した。AIが制御するボートはいくら揺れてもひっくり返ることがない。


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