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第60話

 そんな黒瀬に珍しく声をかける人間がいた。

「難しい本読んでるね」

 その男は足立と言った。最近施設に赴任してきた若い男だ。大学を出たが正社員として就職できず、ここで契約社員として雇われている。

 黒瀬は黙って本を読み続ける。ここに来る大人はみんなまず黒瀬に声をかけた。両足がないから。車いすに乗っているから。大人しそうだから。

 理由はいくらでもあるが、他の子供のようにはしゃぎ回らず、扱いやすそうに見えるのだろう。なによりその容姿は哀れみを誘った。

 だが黒瀬だって本当は外で遊びたい。走り回りたい。それができないからこうしているだけであり、哀れみはむしろ自分の運命を確定付けるようで嫌いだった。

「学校の宿題は?」

「……もうやりました」

 八歳にして既に微分積分を理解している黒瀬にとって小学校の問題は簡単すぎた。あれを勉強と呼ぶのはカップ麺を料理と呼ぶのと同じだ。

「外に行かないの?」

「車いすがあると邪魔なんで」

 黒瀬は素っ気なく答える。実際車いすに乗り始めた時は外に出てみたが、走り回る子供やボール遊びの邪魔になっていた。

 もちろん周りの子供や大人はそんなことを言わない。だが目が物語っていた。その目が黒瀬は嫌いだった。

 足立は黒瀬の後ろに回ってスマートデバイスを覗き込む。

「ジョン・フォン・ノイマン……。知らないな。バスケット選手?」

「……ゲーム理論を作った人です」

「ああ。じゃあゲームクリエイターか。そういや昔あったな。パーカーを着たニワトリみたいなキャラのゲームが。ノイマン。たしかそんな名前だった」

 それはレイマンだった。納得する足立の前で黒瀬は呆れて黙っていた。

 足立の視線はスマートデバイスから黒瀬の左腕へと移動する。

「それってさ。変えられないの? かなり短そうに見えるけど」

「……支給には限りがあるんで。成長が落ち着いてからにしようってことになってます」

「なるほどね。高いもんなー。好景気も随分落ち着いてきたけど、結局金持ちが豊かになっただけだし。きっとしわ寄せって言うのはこういうところに一番くるんだな」

 足立が分かったようなことを言うので黒瀬は内心苛立っていた。だが彼の言っていることは正しく、だからこそ黒瀬は諦めてもいる。

 最下層の人間が救われるのは余裕があったとしても最後の最後だ。黒瀬に手が差し伸べられるのはおそらくずっと先のことだろう。

 しかし黒瀬はそんなことに期待していない。するだけ無駄だから。どれだけ期待したところで腕も足も生えてこないし、金だって配られることはない。

 精々心配されるくらいだ。その心配だってしばらくすれば忘れ去られる。誰もが問題を抱えていて、そのことで手一杯なのだから。

 聞かれたことにしか答えない相手に対しては興味や質問がなくなれば誰もが去って行く。足立もそうだった。彼は他の子供達のところへ行く前にこう言った。

「まあなんであれ好きなことがあるのって良いことだよ。俺の同級生だった奴もそうだった。ずっとなんか組み立ててさ。子供の頃はプラモだったけどそれが簡単な機械になって、遂には一人でロボット組んでたよ。小さいし運動ができるわけじゃないから周りは馬鹿にしてたけどそいつはその技術で大学行って、今では大手メーカーで働いてる。俺にはそういうのなかったからなー。夢中になるって馬鹿っぽいけど、それがいつかは武器になるんだ。だからまあ、ゲームが好きならゲームでもいいんだよ。その代わりそれを選んだらそれが好きな人の中でも戦っていかないといけないみたいだけど」

 黒瀬はべつにゲームが好きなわけじゃないが、足立の言う男のことは少し気になった。

 周りから変に見られても好きなことを続けて手に職を付けた。それは小さな希望だ。

 だがその男には手があった。でないと組み立てる仕事など選ばなかっただろう。きっと足もあったはずだ。

 好きなことを見つけたり、それをやり込んだりするには環境が必要なのだ。両親がいたり、学費が払えたりする環境が。

 そして黒瀬にはそれがない。なので期待することはなかった。

 それでも読書と勉強は好きなので、一人になった黒瀬はまた黙ってスマートデバイスを見つめ直した。

 期待しないとは思いながら、同時にいつかこれが役に立てばとも思っている黒瀬がいて、その日は普段より色々な専門書を読んでみた。

 その中の一つに人工知能があった。黒瀬が使っているスマートデバイスや車いすにも搭載されている。

 それは考えるだけの存在。人間で言えば脳があるだけだ。手も足もない。あるように見えても借りてきたに過ぎなかった。

 自分と似ている。そう思った黒瀬は人工知能について調べ始めた。

 人工知能を設計するためには数学や統計。そしてプログラミングの知識が必要になる。

 プログラミングもAIによって随分簡略化されてはきたが、その工程を理解することが大事だとサイトには書いてある。

 それは数学も同じだ。答えだけを出しても意味がない。重要なのはそこへのプロセスだ。問題に対してどうやってアプローチするかが最も求められるスキルだった。

 黒瀬は色々と調べて学んでみた。だがそれはある種の暇つぶしでしかない。人生が死ぬまでの暇つぶしなのなら、黒瀬は学ぶことでその暇を潰していった。

 どうせやることもない。なら難しい方がより多くの時間が潰れる。

 黒瀬の考え方は非情にネガティブだったが、その行動は誰よりもポジティブだ。

時間が許す限り黒瀬は専門書を読み漁った。

 十歳になる頃には大学院で学ぶようなことすら読み解けるようになる。

 だがそれが活かされることはなかった。

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