黒瀬が十歳になった日。誕生日プレゼントは小さな誕生日ケーキと寄付された文房具だった。黒瀬は使えないのでそれを今日来た女の子にあげた。
「やったー。施設って怖かったけどなんか大丈夫そう」
少女は白沢明里と言った。黒瀬と同い年で常に笑顔の可愛らしい子だが、顔にやけどの痕があった。
「これであたし達は友達だね♪」
明里は笑顔でそう言ったが、黒瀬は無反応だった。
そもそも誕生日が嫌いだ。親がいないことを理解させられる。寄付された物を受け取ると自分が惨めになった。
なにより寄付者は子供達のことなど考えていない人が大半だ。ほとんどがただ可哀想だから、そして自分を善人だと思いたいから寄付している。幸せに暮らしている罪悪感があるのだろう。
本当に子供のことを考えているのなら誕生日やクリスマスにだけ渡すのではなく、生活の質を上げるために定期的な支援をするべきだし、本当に黒瀬のことを思っているのなら腕のない子供に色鉛筆など渡さないだろう。
黒瀬は辟易としていた。大人や社会、そしてそれらから施しを受けて喜ぶ明里のような子供に対してうんざりしていた。
子供が苦しんでいるのは社会を構成している大人の責任なのに、苦しめられている本人が手放しで喜んでしまう。だからいつまで経ってもそれを分かってもらえない。
黒瀬は十歳にして自分と世の中の関係性を完全に理解していた。だからこそ憤り、諦めもしている。いつまで経っても自分達は金持ちの愛玩でしかないのだと。
プレゼントをあげたせいか、翌日から事ある毎に明里が側にやってきた。
「ねえねえ。青い海って見たことある? 綺麗な海はちゃんと底が見えるんだよ」
「……動画でなら」
「本物は?」
「……ない」
「そうなんだ。あたしは海は見たことあるけど、青い海はないんだ。多分東京じゃダメだと思う。なんか今は瓦礫とか埋めてるみたいだし」
現在東京湾は第二東京建設のために除染した瓦礫を運んでいる。朝も夜もなくロボットが埋め立てていく映像はネットでいつでも見ることができ、一時期話題になった。
「ねえ。いつか見に行かない? あたしが車いす押してあげるから」
「……べつにいい」
「なんで? 見たくないの?」
本当は黒瀬も見たかった。だがここからは東京湾ですら遠すぎる。青い海となれば行くことは不可能だろう。
「…………見たくない、わけじゃないけど」
「けど?」
「……どうせ無理だから」
願いや希望が叶うことはない。それが黒瀬の人生だった。なら手を伸ばすだけ苦しむのは明らかだ。そもそも伸ばす手だって黒瀬には片腕しかない。それも不完全だ。
明里は柔和に笑いかけた。
「無理って思えばなんでも無理だし、できないって思えばなにもできないんだよ」
明里は膝を突き、黒瀬の手に触れる。触れられた黒瀬はドキリとした。
「人生はね。楽しもうと思わないと楽しめないの。楽しくないのはいつだって楽しんでないからなんだよ」
「……無理矢理楽しんだって虚しいだけでしょ」
「無理矢理楽しまない方がもっと悲しいよ」
黒瀬はハッとした。もしかしたら自分は無理矢理諦めていたのではないかと思い直す。だとしたらそれは慰めと変わらない。
そのまま黒瀬は黙って俯き、明里の手を払い微かに苛立つ。そして悔しさを隠しながら皮肉な笑みを向けた。
「あなたがここでずっと笑ってられるならそうなのかもね」
「大丈夫。生きてさえいればどこでだって笑えるよ」
明里はそう言って笑い、そして実際施設でもずっとニコニコして過ごしていた。
こういった場所では新参者は虐めにあったり、無視されたりすることもあるが、明里の場合すぐに溶け込んでいった。翌日にはずっとここにいる黒瀬より周りと仲良くしていた。
積極的に他人と関わり、そしていつも笑顔で接する。黒瀬とは真逆の存在だ。
誰とでも仲良くなった明里だが、事ある毎に黒瀬の元にやって来て話しかけた。
黒瀬はそれを鬱陶しく思いながらも、素っ気なく反応していればいずれ来なくなるだろうとも思っていた。今までの誰もがそうだったから。
だが明里は違った。いくら無視してもいつも楽しそうな笑顔を向けて話しかけてくる。
「ねえねえ。そんなに勉強して楽しい?」「おいしいクッキーの作り方って知ってる?」「ガラス割っちゃったから謝るのをついて来て」
毎日明里は黒瀬の元にやってきた。そのうち車いすに乗るのを手伝ってくれるようになった。黒瀬はやはり鬱陶しかったが、同時に疑問も感じた。
「……気持ち悪くないの? わたしには腕も足もないのに」
明里はキョトンとしてからはにかんだ。
「全然。むしろ優しくて好きだなあ。杏ちゃんの体」
優しい。好き。そんな言葉を掛けられたのは初めてだった。
黒瀬は少しずつ心を許していき、そして二人はいつの間にか本当の友達になっていた。
人というのは周りの影響を受けるものだ。この頃から黒瀬は時折ではあるが笑うようになっていく。
笑うと少しだが心が安らいだ。それもまたすぐ引いていくが、また笑えば心が温かくなった。その頻度が上がると黒瀬は少しずつ幸せというものを感じるようになっていく。
だが、やはり心の底から笑うことはできないでいた。生まれた時から感じたことのないそれは黒瀬には無縁のものだと思っていたから。