その夜、事件は起こった。誰もが寝静まった深夜に明里が黒瀬のベッドにやってきた。
他の児童はみんな並んで布団で寝ているが、黒瀬だけが介護もあり小さな一人部屋とベッドを与えられている。明里はその部屋にやって来て黒瀬の耳元で囁いた。
「杏ちゃん……。杏ちゃん……」
黒瀬は右手の甲で目を擦りながら首だけを横に動かす。
「…………なに? 何時?」
「一時半。ねえ。腕付けて。あと車いすも。バッテリーは充電してる?」
月明かりが明里の真剣な表情を照らした。それを見て黒瀬もただ事ではないと理解した。
「……なんで?」
「海を見に行くの。底まで見える青い海を」
「…………なに言ってるの?」
寝起きにこんなことを言われてはいくら聡明な黒瀬でも混乱する。
明里は黒瀬の体を起こし、クッション代わりに枕を背中に置いて体を起こさせた。そして静かに語り出した。
「……今日ね。お母さんと会ったの。一緒に住もうって」
黒瀬はドキリとした。明里はここからいなくなる。その予感が現実のものとなった。だが黒瀬が予想した展開とは違った話がされた。明里の顔が青くなる。
「あそこに戻ればあたしは殺される」
「……え? 殺されるって? 親に?」
明里は震えながら頷いた。
「あの人はそういう人なの。あの人自身は手を出さない。けど手を出すような男とばっかり結婚する。この火傷だってそう。炙ったナイフを押しつけられたけど、あの人はそれを黙って見てた。自分も被害者だって目をしながら。家に戻ればまた別の男がやってきてあの人の代わりをさせられる。そんなのもうイヤ……。怒らせないようにずっと笑顔を作ってないといけない生活なんてヤだよ……」
明里の目から涙がこぼれる。体は恐れからブルブルと震えていた。
黒瀬は愕然としていた。家族がいても不幸になる。そんなものはある者の贅沢な悩みだと思っていた。
だが焼いたナイフを押しつけるような男も、それを見て見ぬふりをする母親も黒瀬の周りにはいない。
本当の不幸とは愛されるべき存在から愛されないことなのかもしれないと思った。
明里はこんな時でさえなんと笑おうとしている。それはとても悲しい笑顔だった。
黒瀬は自分にできることを考えた。このまま施設にいて行政が明里を母親の元へと返せば、最悪の展開になり、もう二度と会えなくなるかもしれない。施設の職員は口減らしだと言っていた。多少の働きかけをしても戻される可能性は高い。
子供だけでできることなどたかが知れている。それが分かっていても黒瀬は言わなかった。大切なのは確率ではなく友達を助けるために動くことだ。
明里は黒瀬を何度も助けてくれた。明里がいたから黒瀬の世界が広がった。そんな明里が困っている。なら今度は自分が助けないといけない。
「いいよ。行こう」