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第71話

 会社に戻った空野はデスクチェアに座って天井を見上げた。

 この世界からのアンインストール。つまりは存在自体を消したいとうのが黒瀬杏の望みである。あのロボットはそう言っていた。

 見たところまだ十歳ほどだ。そんな子供にそれほどのことを思わせるなんてなにがあったのだろうか。空野は疑問に思うも答えを出すことはできなかった。

 ただ一つの使命めいた思いがあった。

 あの子を助けられるのは俺だけだ。はっきりした理由はないが空野はそう確信していた。

 それから空野は事ある毎に病院へ出向き、時間があれば黒瀬に面会を申し出た。

 黒瀬は了承することも拒否することもなかった。いくら空野が話しかけてもただ黙って空の向こうを見続ける。そんな日々が三ヶ月も続いた。

「君みたいに両腕両足がない子でも電脳義肢を付ければ歩いたり手で何かを作ったりできるようになる。申請が面倒だけど国に言えば無利子のローンも組める。まあ、返済計画書を出さないとダメなんだけど。でもそれは家を買うようなものだ。長い年月で見ればプラスになるはずだ」

 黒瀬のように身寄りのない場合はローン審査で落とされる可能性が高い。だが可能性はゼロではなかった。それこそ優秀さを証明すれば通ることもある。または定職についている場合もだが、ようやく十一歳になる黒瀬には遠い話だ。

 結局物事を解決するのは金と環境なのだと空野は痛感した。そして黒瀬はどちらも持ち合わせていない。きっとこんな子が日本中に数え切れないほど存在するのだろう。

 黒瀬は窓の外を眺めながら、視線を落とした。そこには噴水が設置された小さな池がある。太陽が反射して水面がキラキラと輝いていた。黒瀬はそれを見ながらぼそりと言った。

「……行けるなら」

 それは黒瀬が初めて空野に言った言葉だった。

 喜びながらもよく聞き取れなかった空野は聞き返す。

「え?」

「…………お金なんて払えない」

「ああ、そうだよな……。えっとでも奨学金で借りるって方法もあるんだ。君にはまだ早いだろうけど大学に行く時に借りられる。それを頭金に使えばローンを組める可能性はかなり高くなるんだ」

 それを聞いて黒瀬は少し考え込んだ。そして失った右腕を見つめる。既に自分で体を起こすことさえできなくなっていた。そんな状態で勉強するのは困難だ。

「…………義手の支給がまだ残ってるはずです。それを使って腕を用意してくれますか?」

「義手? ああ、装飾用か。でもあれは見た目だけでなにもできない」

「テストを受ける場合でもスクリーンにタッチしないといけないことがあります。この体じゃそれができない」

「なるほど……。分かった。病院に頼んで申請してみるよ」

 空野は黒瀬が少しでも前を向いてくれて喜んだ。自分が誰かのためになれていることを実感すると心が温かくなり、自然と笑顔になる。

 空野は黒瀬が中学受験をするために義手を求めていると思っていたが、実際は大学受験のためだった。病室に用意させたスマートデバイスを義手のジェスチャーで操作し、難しいスラスラと問題を解いていく。

 一年後。黒瀬は都内の国立大学を受験し、そして全体上位の成績を残して合格する。

 この時空野は思った。もしかしたら機会させ与えることができたら様々な才能が消えずに花を咲かせることができたのかもしれない。黒瀬杏はその象徴だった。

 黒瀬はその優秀さから返済不要の奨学金を獲得した。だがそれも入学金と学費。そして電脳義肢のローンを組むための頭金としてすぐに消え、生活のためにも別途で奨学金を借りることになる。

 だが黒瀬が手足を得ることができた。それは一種の奇跡だったし、空野は自分のことのように喜んだ。

 しかし黒瀬は沈んだままだった。もう遅いと言わんばかりに淡々としている。喜びや楽しさを感じる心の装置はとうの昔に失われていた。

 それでも電脳義肢が付けられれば変わるだろうと空野は思っていた。今まで見えなかった景色が見えればそこに希望を見いだせるはずだ。

 だがその前に心配があった。四肢へのバイオジョイント手術。

 一カ所の手術でさえ大人が泣き出すのを四カ所もだ。到底耐えきれない。空野はせめて一カ所ずつするべきだと進言したが、黒瀬は首を横に振った。

「痛みには慣れているから」

 その言葉通り、黒瀬は泣き言一つ言わずに両腕と両足のバイオジョイント手術を乗り切った。そのあまりの強さに空野は驚き、同時に怖くなった。

『……行けるなら』と黒瀬は言った。そしてロボットの言葉、アンインストール。

 その二つを結びつけると空野の不安は益々大きくなる。

 空野の仕事も転換期に入っていた。メーカー同士の競争は苛烈になり、高性能な廉価商品が次々と開発される。商品単価が安くなったためにより消費者の手に届くものとなったが、同時にオーダーメイドは益々廃れ、どれもこれも量産品ばかりになってしまった。

 一人一人に寄り添いたいと思っていた空野は複雑な気分だ。

 手に入れることはしやすくなった。だが手に入れたあとも人生は続く。大事なのはその人生が無数にあるという事実だった。

 だがその事実は利益を生まない。空野の働いているメーカーも工房を人件費の安い海外に移し、そこで作った大量生産品を輸入するという方針に変わりつつあった。

 全体の値段が安くなったせいで中小の工房は次々と倒産。結果として益々電脳義肢は平均化されてしまった。

 そんな中でも空野は誰かのために作りたかった。

 せめて黒瀬が付ける電脳義肢だけは自分が作ってやりたい。その思いで残業を繰り返し、誰よりも働いた。

 そんな空野を見かねた上司の大崎が義肢の完成と共に有給の取得を促した。

「お前が取らないと俺の評価が下がるんだよ」

 そう言われると空野も取るしかない。四カ所もの手術を終えた黒瀬はしばらく安静にするよう医者に言われているし、その間ならばと空野も休みを取ることにした。

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