曽我部から放たれた【スキル】による一撃は、今までの彼からは考えられない程に洗練された剣筋だった。
まるで何年も、何十年も剣に生き、己の命すらも剣技の糧に生きた、生涯を剣に捧げた男の最高の一閃。
明らかに今の自分ではどうにもできない凶刃を前に、死を垣間見た津久見の脳裏に幼少からの記憶が走馬灯のように呼び覚まされた。
◆
始まりは眩いほどの憧憬だった。
それは幼い頃にテレビで見たボクシングの王座決定戦。
同じ日本人が怪物として世界の猛者を相手にリングを勝ち取り、各団体を制覇していく偉業の中の一戦に当時五歳だった津久見 は夢中になり、テレビにしがみ付いて食い入るように見ていた。
テレビの中で無双を続けるチャンピオンの姿、最強を背負うに相応しいその背中に憧れた。
自分も強くなりたい。
憧れに目を焼かれた幼い少年が、両親にボクシングを始めたいと懇願したのはそのすぐあとだった。
子どものお願いを聞いた時の両親の表情は今でも覚えている。
父の複雑そうな顔と反対に喜ぶ顔を見せる母。
母に押し切られる形で渋々と子どものお願いを聞いた父に連れられたボクシングジムは近くのこじんまりとした小さなジムだった。
古い知り合いが営むジムらしく、父はそこのオーナーと気さくに話していたような記憶が残っている。
ボクシングを始めて数か月で年上の子ども相手にも勝てるようになっていた。
8歳から10歳で始めることを推奨されるボクシングの世界で一際小さな少年は、それでも身体の大きな相手に対して勝ちを拾えるようになっていた。
天才だと、周囲が噂した。
それでも成長過程に開きの大きい子どもの話だ。
近所で少し有名な程度にその噂は留まっていたように思える。
しかし、10歳になる頃、スパーリングでうちのジムに来ていた高校生を相手に勝ちを収めた時、周囲の反応が大きく変わった。
少年を見る目が、化け物を見るような目に変わったのだ。
それが決定的となり、周囲から敬遠されるようになった少年は、遂にまともなスパーリングすら受けて貰えないようになってしまう。
そんな時、試合が出来ずに溜まった鬱憤をジムのオーナーであるおじさんにぶちまけようと、事務所の扉を叩こうとした少年が、中で繰り広げられる会話を扉越しに聞いてしまった。
『あの子にはもうボクシングはさせられないんじゃないかな。他の子が危険だ』
『やはり津久見家の御嫡男だということか』
『いるべき世界が違う』
『あの子にリングは狭すぎる』
『普通の人間が敵う相手じゃない。あんなものをスポーツとしての格闘技に持ち込むなど卑怯にもほどがある』
それが誰のことを言っているのかなど少年にはすぐに理解できた。
少年は自分をボクシングから引き離そうとする大人たちの思惑を知って酷く寂しい気持ちになるのと同時に強い後悔に襲われた。
少年は自分の中に芽吹いた
────僕は……ズルをしたんだ
大人たちの怯え混じりの言葉に少年は自分が人とは違う力を振るっている事実を知った。
自分の中に芽生えた
それが大人たちの言う卑怯、普通とは違う力であるらしい。
ボクシングが出来なくなる。
この力を掴んだままだと、少年は大人たちの手によってボクシングから遠ざけられてしまう。
リングの中で手に入る勝利に大きな喜びを見出している少年にとって、それは死刑宣告にも等しかった。
だから少年は、この時手にしていた
普通でいる事を選んだのだ。
それからは年相応の実力に落ち着き、勝ちと負けを繰り返した。
同年代の同階級相手には相変わらず負けなしだったが、年上で、階級も上の人間とのスパーリングでは勝ちと負けを繰り返す程度には落ち着いた。
それでも十分驚異的なのだが、周囲の反応は得体の知れない相手を見るような怯えた目から、以前のような天才へと向けられる感嘆へと戻っていた。
そしてオーナーから初めて対外試合を認められ、初参戦した大会で優勝を飾ったのが12歳、小学六年生の時分だった。
それからはキツイ練習も積み重ね、時々負けを喫しながらも多くの勝ちを積み重ね名を広めるに至り、19の時にプロライセンスを獲得した。
しかし、この時は既にボクシングは、いや格闘技という競技は斜陽となってしまっていた。
プロになってからの会場の観客数など、昔に比べ見る影もない。
下手をしたら子どもの頃の試合の方が人が多かったのではないかと思ってしまうほどに、寂れた興行と化していた。
それでも少年はボクシングが大好きだった。
初めて戦いの勝利の味を教えてくれたボクシングを愛していた。
切磋琢磨するライバルの存在に感謝した。
吐くほど繰り返した練習と減量が実った瞬間は泣くほどに嬉しく、そして揺るがない程の自信を自分にくれた。
これまでの自分を培ってきたのは間違いなくボクシングだ。
だからこそ、その恩を返すべくボクシングの復興に尽力した。
神童として、小さいながらも記事に取り上げられ、そしてライト級王座も近いと目された時、とある配信者に声を掛けられた。
────スパーリングを組んでくれないか?────と。
明らかな売名目的のオファーだったが、それはこっちとして好都合だった。
その配信者は今のボクシング界を沈ませる直接的な原因である探索者でもあった。
探索者の存在はボクシングバカの連中でも知っている。
はっきりと言えば目の上のたんこぶだからだ。
人間離れしたデタラメな動きに漫画の世界のような魔法すらも再現してしまう【スキル】の存在など今やすべての少年少女の憧れと言っても過言ではない。
それはボクシングに憧れる子どもたちを大きく減らす程に多くの羨望を集めた。
その中にはかつての自分と同じ目をした少年も多くいた。
幼かった当時の自分のようにその目をボクシングに向けてくれる少年は、今や珍しい存在になってしまっている。
だからこそ、そんな現状を吹き飛ばそうと、ボクシングには探索者相手にも勝てる可能性があると証明したかった。
だから周囲の反対を押し切って、オファーを受け入れた。
そしてそれが大きな間違いだったと知ることになる。
結果を言えば惨敗。
それも素人丸出しの相手に手も足の出ないまま、無様な姿を全世界に晒して。
嘲け笑う男と、悔しさに泣き崩れる元神童。
この日、ボクシングの未来は決定づけられた。
皮肉にも、栄光を取り戻さんとした男の手によって、正反対の結末を迎えたのだ。
ボクシングの世界に終幕を下ろすという結末を持って。
男は苦悩した。
自分をここまで育ててくれたボクシングとジムの仲間達や恩師に報いることが出来ずに。
男は自分を嫌悪した。
ボクシングの人気を取り戻すべく尽力しなければならないのに、自らの内に湧いた原初の憧憬が首を擡げて、まったく別の感情に心が動かされてしまったから。
それは子どもの頃に抱いた強さへの憧れ。
最強になりたいという、男の子の夢。
感覚はあった。
今でも忘れない。
“最強”に至るためのその力を少年だったかつての自分が知っている。
ボクシングから離れたくないがために手放したその感覚。
それが超常のものだということを男は知っていた。
科学や物理法則を無視したデタラメな存在がいる事を、高校に上がる頃には家柄上知る事となった。
そして自分がその血を継いでいること、自分にその才能があることも。
今ならあの時の両親の表情の意味が良く分かる。
正しく後を継いでほしい父と、危ない世界に息子を巻き込みたくない母。
だから父は複雑そうに顔を顰め、母は喜んだのだろう。
ボクシングなら“普通”の世界で生きていけると。
(母さん……悲しむかな。帰ったら謝らなくちゃな。親父はどう反応するだろう。今更だと怒るかもな)
憧憬と喜びと、後悔と自己嫌悪に苛まれた夢のような短い追憶の底から、意識を浮上させ、ゆっくりと瞼を開いた。
薄暗いはずのダンジョンの中。
津久見の視界は輝かんばかりの色彩に満ちていた。
しかし、その色とりどりの世界を切り裂くように
津久見が歯を食いしばる。
やっと思い出したかつての本当の願いを叶えずして、こんなところで終われるかと。
胸の中に熱く宿る