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第51話 彼を見誤った者の末路

 「随分と気に入っていられるようですね。【マスタースミス】」


 湊から自分の衣服を分捕り、背中を向ける彼の背後で着替え終えた小雛は、そのままぷんすかと怒ったまま、店のドアから帰っていってしまった。


 店から出る瞬間、どこか名残惜しそうにする彼女の顔を見て、おそらく彼女なりに空気を読んでくれたのだと湊は思った。


 事実、夜霧翔子との会話は、今の彼女には聞かせられないのだから彼女の気遣いは正直のところありがたい。


 「新装開店リニューアルオープン第一号の常連さん、というだけさ。深い意味はないよ」


 普段と何一つ変わらない湊の声色。


 彼の真意を窺い知るのは、付き合いの長い人間でも難しい。


 彼の被る何十重にも重なる仮面は長い時を経て、錆びつき、固着し、どれが本当の顔なのかも、彼以外に誰も知る由がないのだ。


 その原因の一端となった少女────夜霧翔子の表情もまた、あの頃とは違う。


 「まぁ、そうですよね。貴方が、女性一人如きにうつつを抜かすことなど有り得ない。確かな”目的”を持った貴方は、その”目的”のためなら、それ以外の何もかもを切り捨てられる人間なのですから。そうでなければ……


 「……」


 暗く、ドロリとしたような深い藍色の瞳が湊を捉える。


 顔を合わせない湊の心情など彼女には伺えない。


 その仮面の下の端正な顔をどう変えているのかも彼女には分からない。


 悲しそうに眦をさげているのだろうか?


 悔し気に歯を食いしばっているのだろうか?


 それとも仮想敵がなにを偉そうにと、険しい目つきをしているのだろうか?


 最悪、変わっていないのかもしれない。


 しかし、そんな事、今の彼女にとってはどうでもいい事。


 全て終わった事なのだ。


 「勘違いしないでください。別に責めているわけでもないですから。むしろ私は感謝を伝えたいくらいです」


 「やめろ」


 「ありがとうございます私に新しい人生を下さって……」


 「やめろと言っている。その口を開くな」


 濃密な怒気が空間が震わせる。


 肌に走るピリピリとした危険信号に彼女の背筋がぞくりと跳ねた。


 「珍しい。怒って下さるのですか?」


 「……子どもの駄々に付き合うつもりはないよ」


 場所を変えよう────そう湊は彼女に伝え、店の裏へと案内した。


 「それで?そろそろ用件を話してくれるかな?」


 湊が案内したのは、以前教え子である簾藤れんどう安富やすとみとお茶を交わした白いテーブルだった。


 ゆったりとくつろぐ夜霧が、なにもないテーブルを前に棘を吐く。


 「客を前にお茶の一つも出さないおつもりですか?」


 その厚かましい態度に湊が小さく溜息を吐くと、重そうな腰を上げて奥へと消えていく。


 戻ってきた湊の手にはティーセットの乗ったトレーが支えられていた。


 コトリ。


 彼女の前にティーカップが置かれ、テーブル中央にティーポットが置かれた。


 湊は自分のカップに紅茶を注ぐと、そのままポットを置いて席についてしまう。


 「私のは注いでくださらないのですか?」


 湊は彼女の要求を聞く気がないのか、ただ紅茶の香りを楽しんでいた。


 「そのくらい自分で淹れなさい」


 そっけないその態度に彼女も慣れているのか、表情ひとつ変えずにポットを手に取り、注ぎ始めた。


 「ティーポットは傾けても蓋が落ちないように出来ている。だから蓋を抑える必要はない。紅茶を注ぐときは片手でしなさい。紅茶を楽しむ際の基本的なマナーだ」


 注ぐ手をピタリと止めた夜霧が面倒そうに目をしかめ、蓋から手を離すと紅茶を再び注ぎ始めた。


 「紅茶を注ぐときは低い位置から注ぐんだ。テーブルに飛び散ってしまうだろう」


 ────そう言えば紅茶にうるさい人だった


 それを思い出した夜霧は彼からのお小言を我慢して聞き入れて、静かに紅茶を注ぎ終えると、すぐにカップに口をつけた。


 香りを楽しめと、またお小言が飛んでくるかもと夜霧は身構えたが、湊もそこまで口やかましく言うつもりはないようだった。


 「貴方の淹れたお茶とは少し味が違うような気がします」


 「……よく覚えているね」


 「貴方とのお茶の席は大切な記憶に分類されておりますので」


 恥ずかし気もなく言う夜霧の言葉に、湊がしばらくの間沈黙を貫いた。


 その間に何を考えたのか、夜霧には分からないが、決して気持ちの良いものではないと、彼女は思う。


 「当然だよ。それ、使ってないんだから」


 少しの沈黙を破ってそう言った彼の指さした方を見ると、そこには小さなざるのようなものがトレーの上に置いてあった。


 「茶漉ちゃごし。それを使わないと紅茶に混ざった茶葉が舌に直接触れてざらつきと苦味を感じやすくなってしまうんだ」


 「先に教えてくださればいいものを……」


 湊の意地悪に夜霧が非難の目を彼へと向けた。


 「教えたよ。数年前にね。覚えていないだろうけど」


 「……うっすらと、記憶にあります」


 「……そう」


 どこかたどたどしい、互いに探り合うような妙な距離感のまま進む二人の会話。


 どこか懐かしい、しかし決定的に違うものに、拒否感が拭えない二人の一見穏やかに見えた会話はすぐに終わりを告げる。


 「単刀直入に申します。【DD】ショップの暖簾を下ろして頂きたく存じます」


 彼女の言葉が、静かな空間に響いた。


 湖面に波紋を広げる雫のように。


 紅茶を片手に香りを楽しむまま動かない湊。


 夜霧は、彼の反応にいち早く反応するため、身じろぎ一つ自分に許さない。


 唾を呑みこむ音が自棄に大きく聞こえた。


 「自分が何を言っているのか、理解はしているのかな?────【聖騎士】殿」


 「私たちの”悲願”を貴方もよくご存じのはずです。それには貴方がDダストと呼ぶ、我々探索者の力の原、その蓄積と収集が我らが”悲願”の達成に必要不可欠だということを」


 「その代わりに僕の方からは武器やアイテムの供給を行ってきた。それで君たちは”表”の世界では手に入らない強力な装備で自分たちの強化を行ってきたわけだ」


 「その通りです」


 「なら身勝手だとは思わないのかな?あまりに一方的だと」


 湊の態度は表面上はとても穏やかに見える。


 しかし、その実、世界をも呑みこんだその身体の中には、星々を焼き尽くす程の劫火いかりを煮え滾らせている。


 普段は幾重にも重ねられた理性の皮で、その熱を感じ取ることはできないが、こうして一つ皮を剥いでしまえば、漏れ出したその熱気は、周囲の生き物を干乾びさせるほどの狂気を振り翳す。


 溶岩滾る火山口の上の綱渡り。


 一歩踏み間違えれば、一つ言葉を間違えれば、例え”夜霧翔子”だろうと、無事とは限らない。


 「その代わり、我々は”忘竜拝教”の情報提供を惜しみません」


 部屋の気温が一気に上昇したのを、夜霧の肌が感じ取る。


 部屋の中に獣の尾のように揺れ動く熱ムラが発生。


 それはまるで太陽の表面に渦巻くプロミネンスのように空間を漂い、誤って触れてしまえば即座の蒸発は免れない。


 ゆったりとした帯のような熱線が夜霧の肌を撫でる。


 ────ジュッ


 頬を伝う汗が一瞬で蒸発。


 もう少しズレていれば、自分の頬が焼け落ちていたであろうことに夜霧の背中に冷たいものが走った。


 「これまで通り、変わらず優しく接しようとした態度が勘違いさせたのかもしれないな」


 それは夜霧に聞かせる言葉ではなかった。


 自分のこれまでの振る舞いが間違いだったと、自省からくる独り言。


 たった今、彼の眼中から自分が外されたことが分かってしまった。


 無意識のうちに自分の呼吸が乱れてしまっていることに夜霧は気付けぬまま、大きく高まった本能からの警告に従おうとしているが、身体が上手く動いてくれない。


 まるで金縛りにあったかのように身体は呼吸を激しくするばかり。


 「それについては絶対条件だ。引き合いに出す事自体が”俺”の逆鱗に触れることだと理解できていなかったか?」


 夜霧はうす暗い部屋の中に光るそれを見て、警戒を一気に限界まで引き上げた。


 「くっ……!」


 夜霧は切るカードを間違えたのだ。


 切ったカードは逆境を切り開く切り札ジョーカーなどではなかった。


 持つことも、使うことも許されない自殺札ジョーカーであったのだ。


 もう遅い。


 彼への理解が浅すぎた。


 彼の言う通り、自分は彼の逆鱗の位置を、その苛烈さすらも理解できていなかったのだ。


 彼の身に宿る灼熱の劫火いかりのその源泉に、その元凶に、その逆鱗に、自分はナイフを突き立てたのだと、夜霧は後悔の中に知った。


 ゆらりと揺れ動く金色の光。


 全ての生物の頂点。


 神すらも切り捨て、世界すらも噛み殺し、概念すらもソレの前には低次にすぎない。


 「ぁ……」


 その象徴。


 最強を最も最強足らしめんとする無二の証。


 ”竜眼”


 仮面の奥に怪しく輝く災厄の光が、ただじっと夜霧を捉えて離さない。


 それはまるで羽虫を見るかのように冷たいものだった。


 「……ぅ、……ぁっ」


 何が起きたのか彼女には理解が及ばない。


 この世のものでは説明のできない事象が、彼女の身体を、心を、魂魄こんぱくをも軋ませた。


 ダンジョンでも、この世界ですらも味わったことのない苦しみが彼女の全身を襲う。


 決して逃れ得ぬ死を前に、涙が零れる。


 「……たず……け……で………」


 小さく掠れ消えていく羽虫の声。


 口から吐き出される赤い血は彼女の生命そのもの。


 必死の懇願も、金色の光はただ見下ろすのみ。


 「み……な…………さ…………」


 懇願の言葉も虚しく、夜霧翔子を構成する全てが、不条理による万力に圧し潰されていく。


 呼吸すらもままならない夜霧が両手で喉を掴み、苦しみに喘ぐ。


 そして、口から垂れ出る涎混じりの赤黒い血と、窒息状態の青黒い顔をした夜霧が白目を剥き、遂に限界を迎えた。


 「……ぁ」 


 どさり。


 糸の切れた人形のように彼女の身体がその場に崩れ落ちた。


 夥しいほどの血を床に撒き散らせながら。


 「……君を特使に選んだ人物はムカつくほどに優秀な人物なんだろうね。君以外なら、間違いなく殺していたよ」


 彼女を抱き抱えた竜眼適応者が、奥の部屋へと消えて行った。



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