「マスターがあの人にま、ま、ま、負けちゃったらどうしましょうっ」
合図を言い放った後の津久見の隣で小雛が顔を赤くしてあわあわと動揺を見せていた。
「あの人が負けるなんて想像できないですけどね」
「でも今のマスターは普通の人なんですよ!?」
小雛とは正反対に落ち着いている様子の津久見に彼女が食って掛かる。
「普通……とは言えないと思うので安心してください。あの人は手足を縛っても十分化け物ですから。そこらの獣より獣ですから」
「て、手足を縛る!?獣よりけだもの!?ま、まさか津久見さんもマスターの事を狙ってるんですか!?いけません!不健全です!!」
「……さっきからどうしたんですか?なんか頭バグってません?」
「あぁ……!?あの人があんなに勢いよくマスターに襲い掛かって……!」
さっきから何を言っているんだと気になった津久見がふと彼女が配信中であることを思い出し、そこにヒントがあるかもと考え、試しに自分のスマホから彼女の配信を
開くことにした。
────マス×ソガ?ソガ×マス?
────ダメよ!いくらマスターが美形(妄想)だからってあんな奴と掛け合わせては!
────……だけどそんなクズだからこそ…………そそるっ
────私はマス×ツクが良いの!あんなクズはマスターに相応しくないわ!!
────↑は?ツク×マスなんだけど?マスターはどう考えても誘い受け属性でしょう?なに?あなたまだ脳みそ新鮮なんじゃない?
────↑なに?戦争したいなら最初からそう言えばいいじゃない。頭の中だけでなく女としての賞味期限も切れたお・ば・さ・ん
そこには地獄が広がっていた。
────なんかさっきからコメント欄乗っ取られてんだけど
────ここ小雛ちゃんの配信だよね?
────お姉さま方多くない?
────怖い
────どっから湧いてきた
────小雛ちゃんも怪しいんだけど……え?大丈夫だよね?
────↑女性は少なからず誰しもが心にチ〇ポを生やしておりますものよ
────知りたくなかった
────そうか、女はみんな心にチ〇ポ生やしてんのか…………どういうことだってばよ
カオスと化したコメント欄だったが、二人の戦いが進むにつれてそれもだんだんと正常化していき、湊の戦闘技術の高さに驚きの声ともう慣れたと言ったコメントが占めるようになった。
「すごい……力はないはずなのにどうやって」
ようやく正気を取り戻した小雛が何事もなかったかのように二人の戦いに見入っており、その変化の大きさに津久見がジト目を彼女に向けていた。
視聴者たちの間でもどうなっているのかと意見を求める声が多くなっていることに気付いた津久見が一役買う事にした。
「マスターがやっていることはあいつの剣を逸らすことと、攻撃誘因の徹底です」
「逸らす?誘因?」
「はい。曽我部の剣は速度も威力もそのどちらもが今のマスターの剣を大きく上回っています。これを真っ向から受けるのは自殺行為にほかなりません」
曽我部が力強い剣戟を高速で繰り返し、それを凌ぐ湊。
傍から見れば曽我部の圧倒的優位にも見えるが、剣を振るうことに全力の姿を見せる曽我部に余裕の色は伺えない。
逆に曽我部の剣を受ける湊の動きに無理をしているような様子は伺えない。
その動きに一切の無駄は無く、まるで一つの防御で二つ、三つと同時に守り切っているようにすら見えるほどに湊の動きは悠然としていた。
「だからマスターはそれをいなすため、曽我部の剣を打ち返すのではなく、力の方向を少しずらすだけに留めて自身への被弾を逸らしているんです」
「すごい。【スキル】にも似たようなものがあるらしいですけど、それを【スキル】も使わず生身で……」
只人の身で成される神業を前にして、小雛は自分の常識が崩れていくのを感じた。
それはまるで人の技に人外染みた力はいらないと突き付けられたような気持ちだった。
「それだけじゃありません。曽我部の剣を逸らす────あの人は“流し”と呼んでいるそうですが、それ以外にも戦いの最中に罠を張っています」
「それが誘因」
「そうです。剣を流す方向を自分に都合のいい方向へと向け、次の攻撃手段を限定させる」
そして今まさに、湊がそれを証明し始めていた。
呟かれる言葉の通りにしか剣を振れない曽我部の様子がみるみる内に悪くなっていくのが小雛たちの距離からでも見て取れた。
きっとカメラにも乗ったことだろう。
「流す方向だけでなく、目線の誘導、細かい足捌きで心理的にも曽我部を操っている。自分のやりやすいように“誘い”、導くことでこの達人級の“受け”を成立させているのでしょう。正直俺はマスターの身体能力なんかよりもこの神がかり的な技術の方が恐ろしく感じます」
「それってつまり……」
────やっぱり“誘い受け”ってこと!!??
────達人級の誘い受け……もうこれって逆に“攻め”なんじゃ?
────鼻血出そう
────マスター……あなたは魔性の男ってことね
「…………」
津久見は自分が言葉選びを間違えたことを激しく後悔した。
────お前解説向いてねぇよ。どうすんだよこの空気
────おい!また元気に湧いてきやがったじゃねーか!
────シリアスどこ……?……ここ?
────お前らいくらマスターがデタラメで感覚がマヒしてきたからってこの意味不明な現状にもっと驚けよ。一般人が探索者相手に無双してんだぞ
────一般人?
────目腐ってるの?いや、脳みそまで腐ってるやつら湧いているけどさ
────逸般人ですね。わかります
ボクシングばかりで触れて来なかったネットの世界特有の雰囲気に、スマホを握る津久見が渋い顔で固まっている間にも、二人の戦いが最高潮を迎えた。
湊が曽我部の鳩尾に手を当てた瞬間、曽我部が叫ぶ。
身体能力の差を高らかに笑い、【スキル】を放ったのだ。
「ダメです。堪えてください」
「でもッ」
飛び出そうとした小雛の腕を津久見が掴んで制止した。
流石の湊とて、今の彼では【スキル】など使われたらどうにもならない。
それほどに【スキル】とは使用者に超常の力を与える代物なのだ。
一般人程度にまで身体能力を制限された湊では、超人の肉体から繰り出される達人技の再現たる【スキル】に太刀打ちできない。
そう感じた小雛が、自分に非難の眼差しを向けるのは理解できるが、彼女が行けば邪魔にしかならない。
「見れば分かります」
言葉の直後、場面が動いた。
「う……そ」
それは素手で達人剣を弾く湊の姿。
小雛でもまともに受けることなど回避しなければならないその強力な攻撃であっても、彼には関係ない。
人間を越えた肉体に、人並を外れた技が乗ろうとも、彼の“技”の域には届かない。
これを知っているからこそ、津久見は彼女を止めたのだ。
「堪えるなぁ……」
小雛を引き留めた当の本人は苦々しい、ぎこちない笑みでその光景を見ていた。
自分が怪我をしながらも、なんとか成した同じ技を、湊は【スキル】に対してやってのけたのだ。
天と地ほども変わる技量に津久見の自信が砕かれた。
安堵の表情を浮かべる小雛と、苦笑する津久見の事など気に掛けることなく戦いは終結を迎えた。
鳩尾に手を当てられ、衝撃を身体の奥、内臓にまで行き渡らせる中国拳法由来の技をその身に食らった曽我部が胃の内容物を吐き出しながら、膝から崩れ落ちる。
剄のその完成度を目の当たりにして、どこまで節操鳴く技術を習得しているのかと、津久見は恐ろしくなった。
「良かった!マスター勝った!」
子どものように跳んで喜ぶ小雛。
なにをそんなに喜んでいるのかは聞かない方が良いだろう。
ちらっとコメントを見ればカプ厨たちが安堵したり少し悔しがっているようなコメントが目についたが大体の人が喜んでいるように見えた。
自分の名前が流れ始めた辺りでさっとスマホから視線を外した。
戦いを終えた湊に近寄ろうとしたその時、津久見がその足を止めた。
何か来る。
それは小雛も同様らしく彼女は既に腰の小刀を抜き放ち、湊と曽我部の二人のその向こう、暗闇の奥を睨みつけていた。
湊がそれに気付かない訳もなく、彼も既にそちらを向いていた。
「ウワー、トンデモナクメンドウナヤツガキタゾーー」
(なんで棒読みなんですか……湊さん)