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二十五本目:闇

「──八咲ッ!」


 息を切らしながら、紙を破くかのような声を上げて病室の扉を開ける。ここに来るまでに何人もの看護師に走るなと注意されたが、そのすべてを無視した。


 一秒でも早く、病院へ運ばれた八咲の容態を知りたかったから。嫌な予感がずっと胸の中を渦巻いていた。恐怖と不安と緊張が僕の呼吸を蝕み、喉から焼けるような唾液を生んだ。


 無理やり飲み込んで重たい戸を開けると、僕の視界に飛び込んできたのは──、


「なんだね、達桐じゃないか。そんな汗だくになってどうしたんだね」


 上体を起こし、ケロッとした表情で呆れたように笑う八咲の姿だった。


「お、おまえ……大丈夫、なのか?」

「大丈夫だとも。ちょっと足首を嫌な方向に捩じっただけさ。まったく、大袈裟なのだよ」

「え、てことは、捻挫?」


 ああ、と八咲は頷いて白いシーツをまくり上げる。確かに右足首に包帯が巻かれていた。


「まぁ捻り方が悪かったのか、医者からは絶対安静だと言われているよ。いやぁ、残念だ。あのまま試合を続けていたら、間違いなく勝てただろうに」


 あっけらかんとした笑みを浮かべてつらつらと強気な発言をする八咲。このどこか飄々とした話し方は普段の八咲だ。ということは、八咲の言う通り、ただの捻挫?


 本当に捻挫なら、それに越したことはない。

 でも、僕の脳の奥から焦げたような痛みを感じるのは何故だろうか。


 捻挫だ。何ともない。いや違う。じゃあこれまでの違和感に説明がつかない、説明なんかつかなくていいだろう。今目の前にいる八咲が無事なんだから。




 本当に無事だと思うか?




「──」


 背中が、ぞっとした。底知れぬ恐怖が、一気に押し寄せてきた。

 八咲、と名前を呼ぼうとした。だけど、呼ぶなと本能が警鐘を鳴らした。押し殺せ。触れるな。立ち入るな。そこから先は、本当の意味で取り返しがつかない──。


「沙耶ァッ!」


 瞬間、僕の背後で雷のような音が鳴った。誰かが扉を思い切り開け放つ音だった。

 振り返るとそこには、形容しがたいほど表情を歪めた刀哉がいた。その表情は、まるで怒りと後悔と悲しみをぐちゃぐちゃになるまで混ぜ合わせたような。


「な、なんだね刀哉まで。そんな声を荒げて」


 八咲が引き攣ったような表情で刀哉を諫めようとするが、


「うるせぇッ! 沙耶おまえ、俺たちにとんでもねぇこと隠してんだろ!」

「何を言っている? 私と君の仲だぞ。そんなもの、あるはずが」

「とぼけんのも大概にしろよテメェッ!」


 叫ぶと同時、刀哉がカバンを床に叩き付けた。空気を痺れさせる怒号と大きな音の直後、時間が止まったかのような静寂が訪れる。


 聞こえるのは、僅かにベッドで後ずさる八咲の音と、刀哉の荒い呼吸音。


「ど、どうしたんだ。らしくないぞ、落ち着き給えよ……」


 八咲が怯えているのが分かる。無理もない。いつも楽しそうにしている刀哉が、こんなに取り乱した声を上げるのは僕だって知らない。


「俺は、おまえが病弱だって知ってた。道場同士の稽古ン時、妙に辛そうにするおまえが気になって、桜先生に聞いたことあったからな。だけど、それはあくまで病弱、普通の体よりも病気に罹りやすい、っていうぐらいにしか聞いてなかった」


 病弱。やはり八咲はそうだったのか。だから時々辛そうにしていた。

 いや、でも、刀哉はそれを知っていた。なら、ここまで取り乱すはずがない。


 なんだ。一体なんだというんだ。刀哉がここまで取り乱すことなんて。


「そ、そうだとも。私はか弱い。君にも話しただろう? だから君も心配をしてくれていたんじゃあないか、違うのかい?」

「違わねぇよ。俺はそんなおまえを心配してた。けどなぁッッ!」


 ──直感が警鐘を鳴らす。これ以上を聞いてはならないと。今すぐこの病室から逃げ出して、一秒後に襲来する残酷な現実から目を背けろと。


 だけど、動かなかった。頭では、即座に逃げろと言っていても、体が、それを許してはくれなかった。


「まさか、君は」


 八咲がぎょっと目を見開いた。世界の時間が停止した。

 今まで平穏だった世界が、ただ仮初めの平和でしかなかった事実に気づく瞬間のように。


 そして、自分たちを守っていた幻想が決壊し、絶望が押し寄せて来る直前のように。


 僕は、世界は、知る。知ってしまう。

 一人の少女の運命を。


「偶然聞いちまったんだよ。おまえを昔から担当してる看護師から!」


 刀哉は息を吸う。そこから零れる激情の言葉を、八咲は察していたのだろう。

 それでいて、止めなかった。来るべき時が来たのだと、自らの運命を受け入れるように。





「おまえは、心臓の病を、生まれた時から抱えてるって……ッ!

 去年の五月の時点で、あと余命が一年しかなかったってことをなぁッ!」





「────────────────────────」


 その時、僕が叫び声を上げなかったのはもはや奇跡でしかなかった。

 去年の五月。それは僕と刀哉が勝負して、事故が起きた月だ。


 ならば、八咲の寿命は、とっくに限界を迎えているのか?

 ウソだ。そんなの、そんな。


 強烈な吐き気と眩暈が精神を掻き乱す。見悶えもせず、叫び声も上げず、泣きもしなかったのは、頭が現実を正しく認識できていないからだろう。その代わりに、眼窩が限界まで見開かれるのが分かった。何を見るでもない。あまりにも大きな事実に、許容の限界を越えたのだ。


「俺がおまえに協力してたのは、剣司をトラウマから復活させて、俺ら三人で稽古しようって『夢』があったからだろ! 俺ら三人なら絶対楽しいって、沙耶もそう言ってたじゃねぇかよ!」


 八咲は何も言わない。黙って、頷くように俯いた。


「叶ったじゃねぇか! でもよ、こんなのはあんまりだろうがよ! これからだろうがよ! 俺たちは、俺たちの剣道は、こっから始まるってのに、おまえがいなくなったら、俺らはどうしたらいいんだよ! 残される俺らの気持ちを考えたことあったのかよ……沙耶ァ!」


 刀哉が八咲の両肩を掴む。しかし、乱暴にされても八咲は抵抗する様子を見せなかった。


「今まで隠していたことは、謝ろう。すまなかった。だが、言わなかったんじゃない、言えなかったんだ。言ってしまったら、君は私を気遣うだろう?」


「当たり前だろ。もうじき死ぬっつー女に、黙って無茶させるクソがいるかよ!」

「そう、君は優しい。優しいから、言えなかったんだ」


 その一言が、今まで堪えてきた刀哉の感情を瓦解させた。

 刀哉の呼吸が、不規則に乱れる音が聴こえてくる。


 八咲の想いを受け止め、泣いているのだ。


「どう、して」


 僕は刀哉の嗚咽を吸い込み、言葉に変える。そして、八咲に投げる。


「どうして、君はそんな体で、僕のことを……」


 救ってくれたのか。人は極限まで追い込まれたら、他人を気にしてる余裕なんかなくなる。僕が身を以って知っている。絶望に首を絞められている人間の世界は、孤独なんだ。


 なのに、八咲は、己の最期が決まっていて、目と鼻の先に最期があって。時は無慈悲に彼女の背中を押し続け、奈落の底へ突き落そうとしているのに。


 彼女は己ではなく、僕に手を差し伸べた。

 彼女は僕の心を救おうと、心を燃やしてくれた。


 どうして、そんなことができる? どうして、君は僕に手を差し伸べてくれたのか。


「嘘を吐いてすまなかったよ達桐。私は中学時代、人数不足で廃部になったから部活ができなかったのではない。特に体が弱い時期でな、あまり部活動に参加できなかったんだ」


 世界の殻を割って語ってくれた時か。確かに、いつもの八咲にしては言葉を選んでいるような感じがした。刀哉の話も八咲の嘘に合わせて咄嗟に作ったのだろう。


「君のことはその中学時代に、刀哉から散々聞かされた。それこそ耳にタコができるほどね。そんな君に興味を持ち、いつか共に稽古をしたいと願うのは自然だろう」


「だからって、臆病者と叱咤して僕のケツを叩いて、文字通り命を燃やして、そこまですることはなかっただろう! 僕のことを見捨てて、得意の暴君さで刀哉を宥めて、二人で……いっしょに時を過ごせば……」


 そっちの方が、よっぽど楽しいだろうに。

 僕なんかのために、命を費やす必要はなかったのに。


「悲しいことを言うな。私が選んだ道で、私が望んだ答えだ。それを君に否定されたくはない」

「……ッ」


 もっともだ。失言だった。今のは八咲の想いを踏みにじる言葉だ。

 ごめん、と謝ろうとしたら、八咲が遮るように口を開いた。


「君に興味を持ち、そんな最中で、君と刀哉の事故を見た。刀哉の体を抱えて泣き叫ぶ君の姿を見て、私は理解した──いや、悟ったというべきか」


「理、解?」


「達桐 剣司の背を押し、未来へ命をつなぐこと。それが私の残された時間ですべき使命だと、。文字通り、命を使うべきことなのだとな」


 頬が燃えた。熱い。斬られたかと思った。涙だと理解したのは、視界が滲んだから。

 八咲の透き通った心を受け止めて、あまりの大きさに体が弾けそうだった。





「だって、そうだろう? 私に未来はないのだから。

 ならば、未来ある君を救おうとするのは、当然じゃないか」





「──」


 心を、斬られた。

 いいや、違う。

 魂を、斬られた。


 八咲 沙耶の魂が持つ、穢れなき透明の刃に。


 嗚呼、彼女はどうして、これほどまでに。

 そして、彼女はゆっくりと口を開き、話し出した。


「父親は私の病気を知り、それでも強く鍛えようと必死に稽古を付けてくれたよ。だが、私の体が強くなることはなかった。ある日のことだった。稽古で倒れ、死線をさまよったことがあった。そしたら父と母が酷く揉めてな。父は家を出ていった」


 父はかつて酒飲みだった。いつだったか八咲にそう教えてもらったことがある。

 あの時、微かに見えた翳りは。


「母は生活を支えるべく身を粉にして働いていた。私もできうる限りで手伝おうとしたが……ダメだったよ。何もできなかった。やがて無理をした母は心身を壊し──身投げした。私という存在が、家族を引き裂いてしまったんだ」


 僕も刀哉も、何も言えなくなる。息が詰まって呼吸を忘れた。

 そんなことない──だなんて、間違っても軽々しく口にしちゃいけない。


「その時から……私は私の命に価値を見出せなくなったんだ。絶望していた。だからこそ、同じく絶望する君を救うことにこそ、己の命の価値を見出したんだ。必死にもなるさ」


 だからか。八咲があそこまでの大立ち回りをしてまで、僕を救おうと躍起になっていたのは、そういうことだったのか。


 部屋がノックされる。八咲が返事をする。看護婦が入ってきた。大粒の涙を零す刀哉と、目を見開いたままの僕を見て、一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに察して仕事に移った。


 後から入ってきた看護師に八咲が抱えられる。どこかに移動するらしい。


「達桐」


 ストレッチャーに乗せられた八咲が、最後まで僕を見ていた。

 何かを口にしようと開きかけていたが、されど音になることはなかった。車輪を転がす音が遠ざかっていく。僕も刀哉も、ただその場にいるだけだった。



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