桜先生の道場に来た。しかし、病院からどう歩いたのか覚えていない。八咲のこと、彼女の最大の秘密。それらが頭をぐるぐると駆け巡り、いつの間にか目の前には道場があった。
何も言わない。ここに来る前に足を運ぶことは伝えておいた。勝手に開けて入っていいとのことだった。戸を開ける。来客を知らせる鈴が鳴る。
「……達桐くん」
先生は道着姿だった。僕の顔を見た瞬間、微かに形のいい眉が跳ねた。
刀哉は言っていた。八咲の病弱さは桜先生から聞いたと。であるのならば、十中八九、桜先生は八咲の心臓のことを知っている。
「先生、ちょっと、相談いいですか?」
「構いませんよ。私のところにも連絡が来ましたから……八咲さん、ですね」
こくり、と頷く。先生は「待っててください」と告げて奥へ走った。こういう話をする時の場所は決まって一つだ。応接室へ。実は、窓を開けると縁側があり、夜風が心地良いのだ。
荷物を玄関に置き、先生の待つ応接室へ向かう。案の定、先生はそこにいた。道着姿のまま、窓を開けて、縁側から夜風を取り入れようと。
「達桐くん、おいで」
「はい、ありがとうございます」
先生がペットボトルの緑茶を差し出してくれる。それを受け取り、一口飲んだ。
「……先生って、八咲と昔から知り合いだったんですか?」
「実は彼女の父親が私と同級生でして。彼は全日本も何度か優勝していました」
とんでもない実績に目を思い切り見開いてしまった。
「そ、そんな強いんですか」
「ええ。だから、八咲さんの強さも納得でした。彼が教えていたのなら……」
八咲のバケモノじみた剣道の強さは才能もそうだろうけど、全日本を何度も優勝したという優れた剣士からの指導の賜物か。あの剣の出生の秘密はこんなところにあったのか。
「だけど、八咲さんと知り合って間もないころでした。彼女が稽古の途中で倒れてしまって」
胸がチクリと痛んだ。刀哉が言っていた八咲の病弱な一面。
「……そこで、父親から聞きました。彼女の体のことを。そこからは彼女自身から彼女の家族のことも、すべて……聞いて、いました」
八咲の体と、離婚。そして母親の自殺。
「私は何もできませんでした」
桜先生の体が、微かに戦慄いていた。
「あの子が辛い、不幸な目に遭っているというのに、私は救ってあげることができなかった。何も、できなかったんです」
鼻を啜る音がした。僕は先生の顔を見ることが、どうしてもできなかった。
「そして……一年前、彼女の口から余命のことを告げられました。私も関係者として医師とつながりがありましたから、隠せないと判断して自ら告白したのでしょう」
「ッ、やはり、知ってたんですか」
「同時に口止めもされていました。さらには、『私の体で私の命だ。お気遣い感謝するが、私の命の使いどころは私が決めるよ』、とまで。何度も間違っていると諫めたのですが、終ぞ彼女は聞き入れようとはしませんでした。結果、私が折れるしかなく……」
ああ、実に八咲らしい言い回しだ。
「なんか、言ってる八咲の姿が目に浮かぶようです」
いや、実際浮かんでいる。目の前に投影できる。鮮明に。だからこそ、八咲がもうじき死んでしまうという事実が、どうしても、どうしても受け入れられなくて。
「それでも、あの子のことを気に掛けていたのなら、私は何か行動をするべきだったのでしょう。いや、実際にはしていました。言い訳でしかないのですが、医者に掛け合い、どうにか治療できないか……あの子が一人になってからも、ずっと」
「先生……」
「でも、あの子の体は回復しませんでした。結果的に、私は何もできなかったのと同じです」
「そんなことっ!」
ない、と否定したかった。しかし先生の声色から滲む感情が、かつての僕とそっくりなことに気付いた。何も言えない。ここで先生の負の心を否定しても、先生の救いにはならないと何よりも自分がよく分かっているから。
首に跳ねのけることのできない沈黙がのしかかる。先生を見ることはできないが、唇を戦慄かせながらもなんとか言葉を絞り出す。
「……八咲は、本当に、すげぇヤツだったんですよ」
瞬間、視界が滲んだ。崩れたパズルみたいに思考が乱れる。
心を抑えていた言葉という堰が外れ、とめどない感情が一気に押し寄せてきた。
「なんで、そんな八咲が、死ななきゃいけないんですかね」
八咲に対する感情が、決壊したダムのように溢れ出した。
半ば文章になってない言葉の羅列をぶちまける。話があちこちに飛び、支離滅裂になっていた。先生を困らせたと思う。感情があまりにも複雑に入り混じってしまっているせいで、自分でも何を言っているのか途中で分からなくなってきた。
だけど、先生は決して投げ出したりせず、僕の話を一心に受け止めてくれた。
先生、ありがとうございます。こんな意味不明な話でも、ちゃんと聞いてくれて。
だけど、こんなに頼れる存在も、八咲にはいないのだ。八咲は己の宿命と、これまでずっと孤独に戦い、生きてきたんだ。
そんな彼女のことを、今まで理解できなくて当然だ。彼女と僕の当たり前は大きく食い違っていて、交わることのない世界を生きていたのだから。
僕と彼女の魂は、乖離していたのだから。
でも、今の僕は、ただひたすらに、彼女に触れたい。彼女の心を抱きしめたい。孤独に戦ってきた彼女を、少しでも癒してあげたい。
彼女を……理解したい。
これが僕だけの感情で、八咲はそんな理解なんて望んでいないのかもしれない。でも、彼女は言った。僕の鞘になりたいと。僕と交わることを、彼女は望んでいるのだ。
「先生、僕は、八咲のために何ができるんですか」
その言葉で、僕の感情の決壊は、ようやく止まった。先生は、黙ったままだった。
自分で考えろ、そういうことだろうか。実際、それしか言えないんじゃないか。僕が逆の立場だったら、答えなんて出せない。だって、責任が取れないじゃないか。こうしろと助言をし、その通りに動いてもしも最悪の事態になったとしたら、誰が責任を取ってくれるのか。
後悔しない道を選べ? それもまた、美しい回答だろう。でも、それは責任を全て当事者に丸投げしているだけの、逃げでしかないんだ。
後悔しないなんてできるはずがない。人間の心はそんな綺麗にできていないから。
この話は、どう足掻いたって後悔しかないのだ。
僕がトラウマを負わなければ。僕が刀哉を傷付けてなければ。もっと早く、トラウマを克服することに向き合っていれば。答えはもう出ている。故に、他に答えが存在しないのだ。
「剣司君」
しかし、先生は口を開いた。重い沈黙を破り、
「あなたは、あの子をどう思っているのですか?」
その声色の、なんと柔らかなことか。
まさしく聖母。慈愛に満ちた柔和な声。先生はこんなにも優しい声を出せたのか。
「僕が、八咲を?」
先生は頷く。そして、もうそれ以上、何も言わなかった。
先生は投げかけてくれたのだ。ならば、考えよう。
僕は、八咲 沙耶という一人の女の子を、どう想っているのか。
……一度本題を見つめよう。
八咲 沙耶とは何者なのか?
僕はあの試合以降、八咲 沙耶を理解したいという気持ちが強くなった。
八咲の孤独な世界の風景を見て受け入れたい。理解がしたい。決して八咲の命を救いたいとか、そんなことは言わない。言えない。
それこそ、彼女にとって侮辱でしかないからだ。
希望の可能性などありはしない夢物語を翳す。大丈夫、助かる。奇跡を信じて。あなたは絶対に死なないよ。
ふざけんな。そんな奇跡が叶うのなら、とっくの前に八咲の心臓は治ってる。その奇跡が今まで叶わなかったんだ。
なのにどうして、今だけは叶うと信じ切れる。それこそ思考の放棄。理解の対極にある拒絶でしかない。
八咲は死ぬ。
だけど、孤独の世界しか知らないまま、独りで死なせたくないのだ。
そのために、僕は何ができる。刀哉だって、散々喚いていたが、八咲の覚悟を受け入れたのだろう。ならばそれ以上言うのは無粋だと。文字通り人の命を懸けた覚悟を踏み躙る、外道の所業だと。
だから刀哉は自分にできる役割を果たそうとしているのだ。
強い。剣道だけではない。太陽のような魂を持つアイツは、限りなく強いんだ。
僕は刀哉になれない。でも、刀哉も僕にはなれない。
僕にしかできない、僕だけの役割とは何だ。