花見から2週間ほど経った時だった。サブとモモを散歩に連れて行くのは、里香と正男の役目だった。散歩と言っても近所を20分から30分歩く程度で、いつもの歩きなれた道だ。そこなら大丈夫という認識があるので、辺見夫婦も安心している。近所の人たちからも気軽に声を掛けられる状態になっているので、いざという時はその人たちに助けを求めるように言ってある。自分たちだけで一つのことを行なう経験を積むことで、大人への階段を上ってもらおうという夫妻の配慮だ。ただ、最初の頃は後ろから黙って付いていき、様子を見ていた時もあったが、今では大抵里香と正男の2人で散歩に行っている。
サブは中型犬の柴犬でリードを付け、普通の散歩だが、モモは猫なのでリードは着けているものの、ペットカートを使用することもある。
この日、いつものように家を出る時はサブもモモも道を歩かせ、帰りにはモモをカートに乗せるようにと予定していた。
「行ってきます」
里香が出かける時、美恵子に声をかけた。この時の様子はいつもの通りだ。
里香は散歩中、サブやモモが排泄したものをきちんと掃除できるように、ビニール袋や水が入っているボトルを持っている。以前、両親と一緒に散歩した時、そのことについて教わっていたので、忘れずに持参しているのだ。
今回、サブが途中で排泄したが、里香は教わった通り、きちんと処理をしていた。
「あら、里香ちゃん。偉いわね。ちゃんとお世話できているのね」
散歩の時、よく出会う近所のおばさんだった。
「こんにちわ。ありがとうございます」
「挨拶もできるし、すっかりお姉ちゃんね。正男君もこんにちわ」
「コンニチワ」
正男のことをきちんと知っている人は少ないが、会った時に挨拶を交わす姿には違和感はない。おそらく花見の時の人の様に外国人が来日して辺見家に滞在しているのだろう、くらいの認識だと思われる。辺見家の人たちも正男のことについて詳しく話しているわけでは無いからだ。それはなるべく普通の生活を体験させてやりたいという思いからだった。言葉そのものはまだたどたどしい感じがするが、定期的な研究所でのメンテナンスのおかげでスムーズになっている。ゆっくり動く分には人間と遜色のない動きになっている。
「そうそう、里香ちゃん。最近この辺りで痩せた野良犬を見かけるの。聞いた話だけど、吠えて威嚇するようなことがあるようなので、気を付けてね」
「はい、ありがとうございます。今、正男君もいるので大丈夫です」
「そうね、じゃ、正男君、里香ちゃんを守ってあげてね」
「ハイ」
そういう会話をした後、里香と正男は散歩を続けた。
「野良犬、怖いね。サブちゃんたちに噛みつかないかな?」
「心配ダネ。デモ、コノ前言ワレタ通リ、僕ガミンナヲ守ル」
そういうことを話しながら歩いていると、ちょっとした空き地の横を通ることになった。さっきのおばさんから聞いた野良犬を見かけたという場所だ。里香はその話を聞いていたので少し緊張気味だった。
その気配を察してかどうか分からないが、空き地の奥の方から痩せた野良犬がやってきた。
「あのワンちゃんがそうなのかな?」
里香が言った。その姿は一部の毛が抜け、目つきも悪い。唇が開き、牙が見えている。かすかだがうなり声のようなものが聞こえる。サブとは全く異なる様子だ。もちろん、里香はこういう犬は初めて見た。さすがの里香も怖いと思うような雰囲気だった。
里香の足が止まり、先に進めない。
その野良犬は里香の様子を見て、少しずつ近づいていくる。
それに対してサブも小さく唸りだす。里香を守ろうとしているのだろう。里香は里香でモモを抱きかかえ、カートの中に入れた。
野良犬が近づくにつれてサブの唸り声も大きくなっていた。
通行人もおり、口々に里香に逃げるように言った。
でも、里香は足が竦んで動けない。その様子を察してかサブが吠え出した。それに呼応して野良犬も吠えたが、体力的に弱っているのか声は小さい。そのままにしていてはすぐにでも喧嘩になりそうな状態だった。